【瞬 第10話 別れ③】
…金指side……
廊下には、何も聞こえてこなかった。彼の泣き声も何も。
分厚い壁が塞いでいるのか、あえて声を小さくしているのか…どちらにしろ、俺には入り込めない龍我の心の内がそこにはある。
泣きたかったんだ、ずっと。
微かに潤んだ瞳はカメラにどう映っただろう。アイドルらしい輝きだっただろうか。誰が…泣きたくて、泣けなくて、ぐっと堪えた"笑顔"だと分かるだろう。
つい2時間ほど前、自販機の前で突然着信を知らせた携帯。慌てて周りに人がいないのを確認してから出ると、真っ先にうろたえた声が飛び込んできた。
『一世、どうしよう…どうしよう!?』
俺のことを下の名前で呼ぶ女子は、
「どうしたの? …夏菜子」
彼女しかいない。人見知りな自分にしては珍しく、女子では唯一下の名前で呼んでいる。初対面のときから双子のお姉ちゃんみたいな感覚で、トラブルメーカーっぽいけどいつも明るく笑っている。そんな彼女だから、電話の向こうの狼狽ぶりに、条件反射みたいにぞっとした。
『真梨が…退学させられちゃった……』
息が詰まった。
絞りだすように吐き出された言葉を、俺は冷静に…冷静に受け止めようとした。
「…どういうこと?」
『龍我のことがバレて…それで…っ』
声をなくしたように何も言えなくなった俺に、夏菜子は何度もつっかえながら話した。
真梨ちゃんが退学届を渡されたのは2週間前。そして昨日、真梨ちゃんの手で書かれたそれは受理された。彼女はもう、東城高校の生徒ではない。
『あのね、一世…頼みたいことがあるの。このこと、龍我に伝えてくれないかな……。あたし、勇気なくて。どんな顔して話せばいいのか、わかんない……』
夏菜子は涙声で訴えた。
学校側は龍我には何も伝えていないという。そうだろうな、と思った。何も知らせずに、引き離すつもりなんだろうな、と。
泣いている夏菜子をなだめてから電話をきった。願わくは今にも忘れ去りたい事実を、俺はどう伝えればいいんだろう。
"いつか終わりがくる"
そう覚悟していたとしても、別れることは……
「龍我」
楽屋のソファーに座ってくつろいでいる龍我を見たとたん、また息がつっかえそうになった。
泣いちゃダメだ。俺が泣いちゃダメだ。
目を逸らすことは許されなかった。俺は、龍我の表情が変わっていくのを見た。
「…は?」
片頬を上げて俺を見る彼は、…そう、それは笑顔だった。
冗談なんて言わないでよ。縁起でもない嘘つくなよ。
そんなあしらいの言葉は、ついに龍我の口から出ることはなかった。
笑顔はひくつき、唇が震えだし、小動物みたいに俺を見て……
「…龍我」
ヒュウ、と喉が鳴った。
彼は声も出さず、片手の甲で口を押さえた。見開かれた目から、涙が一筋こぼれ落ちた。
廊下のソファーに背中を預けて目を閉じる。いまだ2人は出てこない。
今日これから仕事がないのが救いだった。龍我の感情の収拾がつくまで、俺は待つことにした。
考えることはひとつだった。
どこから漏れたんだ…
誰かがリークした…?
"秘密"を共有していた顔を思い浮かべ…俺は顔を覆った。
わかりすぎるほど…わかってしまった。
『このこと、誰にも言わないで』
言い含めるように話したあの日、小さく頷いた…橘菜摘。
嫌な偶然だった。彼女とは、さっき共演したばかりだ。
事実を確かめに行く足は重かった。これをしていいのかと思った。
"立花なつみ様"と書かれたドアを見つけて立ち止まる。中はがやがやと騒がしい。
『ナッツ、良かったわよ! あのコメント』
『ほんとですか!? やったー、ありがとうございます!』
軽やかにまるく飛び交う女性たちの声が聞こえてきた。皮肉だ。喜びの声は聞こえて、悲しみの声は聞こえないなんて。
ノックしてもかき消されそうだと踏んだ俺は、ノブをガチャンと力強く回した。
「あの、すいません!」
そのとたん静まり返る楽屋。華やかな人たちに囲まれて、立花なつみ…橘菜摘は座っていた。
「あ、金指くん…」
きょとんとした顔で俺を見る。
「ちょっと…話があるので、2人にしてくれませんか」
そう言うと、スタッフさんたちは快く「どうぞどうぞ〜」なんて笑顔を浮かべて次々に楽屋を出ていったけれど、俺にはわかる。背後からの視線。
俺は彼らを知らないけれど、彼らは俺を知っている。人の視線を、何とも言えず気味悪く感じたのは初めてじゃない。変な噂たたないといいけど…いや、今はそんなことより。
「…どうしたの?」
赤いリップグロスがつやつや光る唇が動く。濃い"メイク"はまるで本当の彼女を隠しているようだった。
ナッツスマイル。業界で評判の高いその笑顔が滑稽に見えた。その笑顔で…よく、龍我と共演できたもんだ。
「どうしたの、じゃないよ」
自分の口から出たのは、あまりにも冷たい言葉だった。
「よくそんな笑顔、浮かべてられるよね。…秘密破っといてさ」
…龍我side……
夜中3時、起き上がった。眠ろうとしても眠れない。なるべく別のことを考えて、目を閉じる。真梨の夢を見る。いつまでも見ていたいのに目が覚める。この繰り返しだ。
喉がカラカラに渇いていた。リビングでポットのお湯を飲むと、泣き疲れてぼんやりとした頭が徐々に覚めていった。
目を閉じるのが怖かった。また、幸せな夢を見てしまうから。ソファーに座り、暗闇を見つめる。カーテンの隙間から射し込む街灯の白い光が寒々しい。
昨日の夕方、ふらふらと家に帰り着いた俺を出迎えたのは弟だった。心配そうな表情を浮かべていた。
『…ごめん、なさい』
校則違反は家族に連絡される。就寝前、事情を知った両親に申し訳なくなり頭を下げた。どんな叱責でも受け止めるつもりだった。
『…よかった』
母親がぽつりと漏らした一言は、意外なものだった。
『あなたが、無事で』
隣に座る父親は、『まぁ…そういうこともあるだろ』と怒っている訳ではなさそうで、それもまた意外だった。
努めて明るく接してくれる両親に余計な心配はかけたくなくて笑顔を保った。しかし夜、1人きりの部屋にいると、心の奥が鉛を飲み込んだように重く感じた。
目を閉じると思い出す、真梨の笑顔……
ダメだ。苦しい。
"無事でよかった"なんて、俺はそんなこと思ってない。
"佐藤龍我"を守る盾のひとつも、大切な人に分けてやれなかった。
「…いたんだ」
静かにドアが開き、弟が顔を出した。
「ごめん、起こした?」
「別に。喉渇いただけ」
部屋に戻ろうとすると、「ねぇ」と呼び止められた。
「しばらくここにいれば? 俺もここにいるから…さ」
「…悪い。ありがとう」
いつの間に涙を流していたのだろう。
弟は黙ったまま、情けない姿で泣き続ける俺の隣にいてくれた。