【瞬 第11話 夢③】
…夏菜子side……
3学期、始業式。
教室のドアを開けるとき、あたしの手は強張った。
唇を噛みしめて、勢いよくドアを開ける。
「…って、いるわけないよね」
窓際の一番後ろの席で文庫本を開く、その姿はやっぱりない。
澄んだ冬空の陽光が眩しく降り注ぐ教室。
「ハム太郎〜、元気?」
静かな空間に、あたしの声がやけに大きく響いた。
ケージを開けてエサを取り替え、手に乗せたハム太郎を見つめたとき、
_ぽつ
小さな体がピクリと震えた。
「あ、ごめんごめん」
突然の感触にびっくりしたのか、落ち着かないハム太郎をケージに逃がす。
はぁ…もう。
潤んだ目をぎゅっと瞑って、再び開いたとき、冬の寒さが目にしみた。
真梨…今頃、どうしてるかな。
転校先の学校でも、誰よりも早く登校して、静かに本を読んでいるんだろうか。
夢であるならと、何度も思った。
真梨の退学は嘘で、実は盛大なドッキリでしたー、なんて…
「あたし、なに考えてんの…」
真梨は冬休み前の2週間、誰にも言わずひとりで考え続け、退学届を提出した……
紛れもない事実だというのに。
12月17日。あの日の夜、携帯が鳴った。
退学すると知って弾かれたように一世に電話した後、あたしは携帯を開いていなかった。真梨の口から退学を告げられたら、それは事実ってことで、とても受け止めきれる自信がなかったからだ。
夜になり、静かな部屋に着信音が響いたとき、それが真梨だとすぐにわかった。
電話じゃなくて、LINEでよかった。電話だったら、泣いているのがバレる。余計な気を遣わせたくない。
『急にいなくなってしまってごめんね。転校することになりました。今まで仲良くしてくれてありがとう。別々の学校になるけど、夏菜子は夏菜子らしく、元気で明るくいてね』
真梨らしい文章だった。
なんで退学させられたとか、誰にも言えなくて本当はつらかったとか、そんなことは一切書かれていなかった。
文章の最後に新しい連絡先が添付されているのを見て、龍我とは完全に切ったのだと知った。
真梨が決めたことだ。
他でもない、彼女が。
元気で明るく…
それが彼女の願いなら。
あたしは笑顔でいよう。
泣きながら、そう決めた。
あとで訊いたら、麗華にも真梨からのLINEが届いたらしく、2人でまた泣いた。
その麗華とは、冬休み中、学校に呼び出された。
『あなたたち、まさかとは思うけど、佐藤くん金指くんと連絡先交換してないわよね?』
学校側は徹底して、真梨と龍我を繋げるものを排除するつもりらしかった。
『まぁ、もし交換していたとしても…佐藤くんたちにも連絡先を変えるよう指示したから、大丈夫だとは思うけど』
その言葉で、連絡先はもう繋がらないと、つまり削除するしかないと思い知った。友達どうしだったあたしたちでさえ、ちゃんとしたお別れはできなかったのだ。
突然の退学にクラスメートはもちろん驚いていたけれど、すぐに納得した。いや、納得させられた。
なぜなら真梨は、"校則違反で"退学したのだから。詳しくは語られないその事情に、誰も疑問を投げかけることはできなかった。
だから彼らは、真梨が龍我と付き合っていたことを知らない。知らなくていいことだけど、2人の思い出をすっかり消し去ってしまった学校は、あたしには寂しい場所にしか見えなかった。
何より龍我のことが心配だった。
テレビに映る彼は相変わらず笑顔を浮かべていた。アイドルとしては百点満点の笑顔を片時も絶やさずに。
けれど、友達のフィルターを通して見たとき、それは明らかに作り笑顔だった。カメラには決して映らない。表情を隠している。必死に本心を隠している。
今や連絡先も知らない彼に、伝える方法はひとつしかない。
そして伝えた。
ひとりのファンとして、あたしはいつまでも応援してるから…
『あなたの味方です』
つらいときは助けてくれる仲間がいる。
だから…幸せになって。
今の場所で、自然と笑えるようになって……
それが、真梨の願いだから。
…金指side……
「真実が知りたい」
ある日、龍我はそう言った。
年が明けて…3学期。
冬休み中、彼なりに踏ん切りをつけたのか、ずいぶんさっぱりとした表情だった。
「あえて俺に言ってないこととか…あるだろ?」
あるには、ある。
ちらりと視線を向けた先、その席は空白のままだ。
橘菜摘。
始業式から1週間、彼女は学校を休み続けている。
俺が…傷つけたようなもんだけど。
『よくそんな笑顔、浮かべてられるよね。…秘密破っといてさ』
12月17日、真梨ちゃんの突然の退学を聞かされた日。
龍我と2人で出演した大型番組。偶然にも同じ場所に、橘さんがいた。
なんで。どうして。
激情のままその楽屋に押しかけると、彼女は膝から崩れ落ちた。
『ごめん…ごめんなさい…!』
メイクが崩れるのも構わず、橘さんは両手で目を覆って泣きじゃくった。
『別に謝ってほしいわけじゃないんだけど』
俺の声にはまだ棘があった。彼女の涙を拭うつもりはない。
『どうしてこうなったのか…教えてほしい』
ただ、知りたい。
秘密を共有し、守ると誓ったあの日の橘さんを、俺は信じたかったから。
『心変わりしたの?』
彼女は首を横に振った。
『じゃあ、どういうこと?』
涙に濡れた瞳が俺を見上げた。
『先生に言ったのは、私じゃなくて…』
そして続いた言葉に、俺は目を見開いた。
橘さんは俺の前で、苦しそうに顔をゆがめた。
『お願い、彼女を責めたりしないで……。悪いのは私だから。約束を破った私だから……』
悲劇のヒロインは嫌いだ。自己犠牲も嫌いだ。
『責めるつもりはないよ』
橘さんが背負う必要はない。そして"彼女"も背負う必要はない。
『約束に、優先順位なんてない。自分の気持ちで選んだなら、それが自分にとって正しい選択だったってことだよ』
「正しい選択…」
龍我はぼんやりと呟いた。
学校を休み続けているかわりに、テレビではよく見かけた。去年の初主演ドラマが大ヒットしたせいか、業界では引っ張りだこだ。
今休んでいるのも、仕事が理由だといいけど。
「今度学校来たとき話してみるわ、俺」
龍我の言葉に、俺は頷いた。
「それから…感謝しとく」
「感謝?」
「もっと悪い事態が…もしかしたら起きてたかもしれない。だからその前に終わらせてくれてありがとうって、伝える。…神木と、志田に」
…橘side……
「菜摘ぃ! 待ってたよ!」
教室に入ったとたん、クラスメートが抱きついてきた。
「…ありがとう」
ちらりと教室の奥に目を向けると、志田さんと目が合った。ロシアンブルーのような瞳が、うっすらと緩んだ。
自分の席につこうとすると、
「…橘」
その声に、私は顔を上げた。
「…大丈夫か?」
たった一言、その一言に、胸がじんわりと熱くなる。
「…私は大丈夫。佐藤くんは?」
「…俺も大丈夫だよ」
それだけだった。
すれ違うように、彼は去っていった。
傷ついた者どうし、これ以上、掘り返す必要はない。
私はまた、佐藤くんに救われた。
…志田side……
放課後の教室で、窓にもたれて外を見ていた。すっかり葉を落としたプラタナスの枝が寂しげに揺れている。
「…佐藤」
隣に立つ彼にそっと呼びかけた。
「なんで…彼女のこと好きになったの?」
訊いた瞬間、愚問だと悟った。
彼はやわらかく笑った。
「なんでだろうなー……気づいたときには、好きになってたから……」
恋愛は…難しい。恋したことのない私が思うよりずっと。
きっかけなんて些細なことだ。日常の延長線上で、ふと出会った人に心が持っていかれて、あたたかい気持ちになる。
誰もが、いつかは恋に落ちる。
「…守りたくて」
ほろりと漏らした直後、佐藤はすぐに照れたように笑った。
「…なーんて、カッコつけてんな俺」
カッコつけ…じゃないよ。
守りたい。守りたかった。
きっとそれは本心だろう。
小さな後悔が胸を優しく引っ掻いた。
「さっき『ありがとう』って言ってくれたけど…本当に、私の判断が正しかったのかどうか…」
「不安にならないでよ」
佐藤はきっぱりと言い切った。
「志田がそんなこと言ったら、俺が別れた意味がなくなる」
「そっか…そうだよね。ごめん」
「…それに」
彼は私からふっと目を逸らし、白い冬の空を見上げた。
「…俺だけの力じゃ、真梨のこと守れなかったから。だから、感謝してる」
風が吹いた。
「じゃ、俺…帰るから」
「うん、じゃあね」
佐藤の背中を見送りながら、ふと胸を掠めた予感があった。
もう一度会う、と思う…運命の人なら。
直感だ。願望から生まれた直感。
2人が再会する保証はない。
けれど、でも。
"奇跡"は起きる。
きっと……
…龍我side……
「俺たちがー?」
「"美 少年"!!」
幾重にも連なる波紋のように、歓声が広がっていく。
見上げると、まばゆいライトが目にしみた。
ファンの人たちとひとつになる、この瞬間が一番好きだ。
『"美 少年"として輝く夢を……』
…ねぇ、真梨。
俺はやっと…歩き出せたと思うんだ。
君が残してくれた思いを、ちゃんと果たさなくてはならない。
そう決めて、やっと歩き出した。
「みんな、アンコール出てちょうだい!」
菅野さんの忙しない声を合図に、キラキラと輝く会場に再び飛び出す。
迎えてくれる歓声。
ここには必要としてくれる人たちがいる。
それが、俺の幸せだ。
ねぇ、覚えてる?
春風が迷い込む、小さな奇跡が起きた日のこと。
あれからいくつの日々を重ねて、この想いを募らせて。
いつしか君は、かけがえのない人になっていた。
君の笑顔が僕の全て。
叶うならずっとそばにいて、一番近くで君を見ていたくて。
いつかくる終わりも、永遠と信じられたよ。
涙ばかりの恋。
僕は君を幸せにできたかな。
「あ、そのペンめっちゃオシャレ。龍我っぽいね」
隣に座った金指が、俺の手元を見て言った。
「そう? ありがと」
「歌詞書いてんの?」
頷いて、万年筆を握り直す。
「ラブバラード。通るかどうかわかんないけど、佐藤龍我初作詞です…」
「おぉマジですか、期待してます」
紙を見つめる。
歌詞のラストはもう決めている。
いつかまた巡り会えたら、
必ず君を幸せにします。