ピの図書館

ピの図書館へようこそ。このブログでは、ツイッターに掲載しない長編小説を投稿しています。

【瞬 番外編②あの日、君は。】

夏菜子side……

 

 

 

"真梨へ"

思えばそれは、初めて書いた手紙だった。

『友人代表のスピーチをしてもらいたくて…』

頼まれたとき、あぁ、そうだ、と思いついた。

あたしは語り部になろう。

この"奇跡"の語り部に。

国語の苦手なあたしが唯一、すらすらと綴ることのできた物語。

これは、2人の再会…その裏側のお話。

 

 

 

_

 

 

 

大学を卒業した後、あたしは小さい頃からの夢だった服飾デザインの仕事に就いた。

その初仕事で、"偶然"はやってきた。

「佐伯ちゃん、ちょっと」

昼休み、上司である先輩デザイナーに呼び出された会議室で、唐突に言い渡された"御依頼"。

「コンサートの衣装を作ってほしいの」

先輩は資料を差し出した。丁寧にファイリングされたその表紙に目を向けたとき、一瞬思考が止まった。

 


『美 少年ライブツアー"Cosmic Melody"衣装製作の御願い』

 


「今年から、うちの部署の新しいクライアントにジャニーズ事務所が入ってくれたことは知ってるわよね? 佐伯ちゃんには、その担当になってほしい」

…心臓が鼓動を鳴らした。

芋づる式に浮かんでくる、6年前の思い出。

「もちろん、初仕事で厳しいことはわかってる。これが大きなヤマだってことも。けれど、私はあなたの才能に期待してるから…あえてこういう仕事を、任せてみたいのよ」

そういうことじゃない。

この緊張は、そういうことじゃない。

なんという偶然…

それはまるで、2人が出会ったときのように、突然舞い込んできた思いがけない仕事だった。

「もし嫌なら、他の人に任せてもいいんだけど…」

呆然として返事もできないあたしに、先輩はそう言った。けれどその口調には、自惚れじゃなく、切実な願いがあるように聞こえた。

"佐伯ちゃんにやってほしい"

あたしは目を閉じた。

大切なのは、自分がどうしたいか。

自分の気持ちに素直になること。

私の気持ちは……

「どう?」

顔を覗きこまれると、答えはひとつしかなくなった。

「やります。あたしにやらせてください」

 

 

 

机の周りに、クシャクシャに丸めた紙が散らばっている。

あたしは思わず溜息をついた。

やりますと引き受けたはいいものの、なかなかデザインが思いつかない。

初仕事、そして"美 少年"の衣装という緊張感。

あーでもないこーでもないと考え続けていたら、真夜中になってしまった。

疲れた頭を癒すためにホットミルクを飲むと、ふとテレビの下のDVDラックが目に入る。

"美 少年"がデビューして5年。彼らのライブや今までの出演番組を焼いたDVDがずらっと並べられたそのスペース。

あたしは今でも、"美 少年"のファンだった。アイドルとしての彼らを追い続けてきた。

ラックに手を伸ばす。

久しぶりに、観てみようかな……

ジャニーズJr.時代のザ少年倶楽部。初登場のとき、龍我はまだ13歳だった。幼い顔に、衣装はちょっと大きめ。仕事柄、自然とそこに目が行く。

16歳。真梨と出会った頃の少クラ。そうだ、この回の収録…真梨と麗華とあたしの3人で観に行ったんだっけ。この曲で龍我はセンターに立ち、"美 少年"を立派に牽引していた。

そして、今…

高校を卒業してすぐ、デビューが決まった"美 少年"。歌唱力もダンスもメキメキと実力をのばして、ドラマや映画で新人賞をとるほど俳優としても活躍している。

出会った頃より…ずっと遠い位置で、彼は輝き続けている。

…あぁ、なぜだろう。

テレビの画面がぼやけて、あたしは思わず口を手で押さえた。

…会いたい。

2人に会いたい。

…龍我と真梨に。

 

 

 

DVDは再生を終え、黒い画面を映していた。

あたしは立ち上がった。机の引き出しを開けて、"それ"を取り出した。

直感で動こうとするのは、むかしからの癖だ。学生の頃はその性格で失敗することもあった。でも今となっては、それだけが頼りだった。

彼がまだ実家暮らし…かどうかはわからないけれど、息子に届いた手紙を渡さない親はいないだろう。

小さなメモには、住所が書かれていた。

それは17歳のあたしが賭けた、最後の望みだった。

 

 

 

『久しぶり。今度、会えませんか?』

 

 

 

返事がくることは期待していなかった。彼の気持ちが変わっていれば、あたしからの一方的な手紙は無視することだってできる。

けれど彼は来てくれた。初夏だというのにキャップを目深にかぶって、サングラスにマスクという出で立ちで。

「…夏菜子。久しぶり」

その声には聞き覚えがあった。

「……一世」

夜遅くの喫茶店

6年ぶりに会う彼は、あの頃より格段に大人びていた。

「なんで俺の住所を…?」

席に座った瞬間、訝しげに訊いてくる。

「連絡先に登録してあったんだよ」

6年前。それまでアイドルとしての姿しか見たことのなかったあたしは、真梨に紹介されて初めて、彼…金指一世と、佐藤龍我と対面した。

図書館書庫で連絡先を交換したときは、ひたすら舞い上がっていて気づかなかった。連絡先に隠されるように添付されたプロフィールのなかに、彼が登録していた実家の住所。離ればなれになってから気づいた。

「へぇ…すっかり忘れてた」

事の顛末を話すと、一世は懐かしそうに目を細めた。

「あのとき…先生に、連絡先を消せって言われて」

うん、と相槌をうつ彼。

「でも、何かあったときのために…って思って、書き留めておいたの。一世の住所」

連絡先は変わっても、実家の住所は変わらない。そう思って、17歳のあたしは唯一の手がかりを残した。"いつか"のために。

「じゃあ、見えないところで繋がってた…ってことか」

一世の言葉に、あたしは頷いた。

繋がっていたかったのは、誰よりも自分自身だった。

なんでだろう。アイドルとの距離を縮めたままでいたいという不純な願望ではないと、今ならはっきりと言い切れる。だってそれは明らかに…

夏菜子。あのね…」

一世が息を吐き、ぽつりと漏らした。

「龍我が、会いたがってる」

気持ちは同じだった。

…明らかに、並んだ2人の笑顔が見たいと…そう願う気持ちは、一世と同じだった。

「もう…いいんじゃないかな」

あたしは小さく折りたたんだメモを渡した。

真梨の職場を記したメモを。

誰よりも、奇跡を願っていた。

「…ありがとう」

一世はそれを受け取った。

お互いの気持ちを確かめた今、もう話すことはない。そう思い、立ち上がりかけた…そのとき。

夏菜子は夏菜子らしいデザインを描くといいよ」

唐突に、一世はそう言った。

「え…?」

「マネージャーから聞いたよ。今度のツアーの衣装、夏菜子がデザインしてくれるんだってね」

「あ……」

「楽しみにしてる。俺らのこと、一番知ってるのは夏菜子だから」

そんな言葉を残して、一世は「じゃあ」と小さく手を振った。

「うん、じゃあね」

去っていく背中に"ありがとう"と呟いて、席に戻る。

あたしらしいデザインか……

ふとテーブルを見ると、細長い封筒が置きっぱなしになっていた。

「…いっ…」

その名前を呼びかけて、慌てて口を噤んだ。まだ人のいる喫茶店、リスクが高すぎる。

それに、もう彼の姿は見えない。相手が誰だろうと、去るときは突風のようにいなくなる。そういうところは6年経っても変わっていない。

「てか、何これ……」

一世が忘れ物なんて珍しい。封筒をヒラヒラと振ると、はらりと何かが滑り落ちた。

糊づけしときなさいよ…まったく。

かがんで拾い上げたとき、思わず指先が震えた。

『美 少年 Live Tour "Cosmic Melody"』

それは…チケットだった。

おそるおそる裏返すと、

"夏菜子へ"

一世の字……

彼らしくカッチリと丁寧に書かれたその字が、ふいにぼやけていく。

なに似合わないことしてんのよ……

チケットはあと2枚入っていた。それぞれに、"真梨ちゃんへ" "麗華ちゃんへ"と書かれている。

もう…行くしかないじゃない……こんなこと書かれたら。

あたしの逃げ場はない。逃げるつもりもない。

帰宅したあたしは、そのまま机に向かった。

散らばったゴミを捨てて、まっさらな1枚の紙に向き合う。

もう何度聴いたかしれないCDを再びプレイヤーにかけた。

美 少年ニューアルバム"Cosmic Melody"。聴き慣れた懐かしい曲を筆頭に、新しく収録した曲、6人それぞれの初ソロ曲も含まれた、ファーストアルバム。これが今の彼らの姿だ。

ペン1本で描く世界観。

『一番知ってるのは夏菜子だから…』

激励の言葉を糧に、思いのままペンをはしらせる。

…それは、明け方に完成した。

 

 

 

1ヶ月後、待ち望んでいた"奇跡"が起きた。

龍我と真梨が、再会した。

それを聞いたとき、あたしたちは飛び上がって喜んだ。

そしてあたしは、自分が衣装をデザインした"美 少年"のライブに、真梨と麗華と行くことができた。

…真梨は泣いていた。感動の涙を流しながら、ステージの上の龍我を見つめていた。

「ありがとう…本当にありがとう……」

麗華と慰めながら、あたしは思っていた。

2人は"運命"だったのだと。

 

 

 

_

 

 

 

「今でも信じてるんです。2人は出会うべくして出会ったんだって」

手紙の向こうで、真梨は龍我と顔を見合わせて照れたように笑った。

真梨は淡い赤のドレス、龍我は白いタキシードを着て、2人並んで座っている。

式の後の披露宴。友人代表としてのあたしのスピーチは、用意された数分間じゃ収まらなくて、ギリギリまで時間を引き延ばしてもらった。語り尽くせないほどのエピソードに、招待客はときに笑い、ときに涙しながら、耳を傾けてくれている。

手紙を読みながら、あたしは思い返していた。

再会から4年。

あたしたちは、27歳になった。

『結婚…することになったの』

そう打ち明けた真梨の笑顔は最高に可愛くて、幸せそうだった。

ここに至るまで、紆余曲折はもちろんあった。

週刊誌に撮られるリスクとストレス。結婚発表後、一部のファンから心ないバッシングを受けたことだって、一度や二度ではない。

不安定な日々のなかで、それでも2人が離れなかったのは、お互いを本当に大切に思っていたから……

交際している間、真梨は軽率な行動を一切しなかったし、龍我も完全に彼女のことを隠し通した。SNSの普及したこの時代に、2人の情報は全く外部に漏れなかった。

きっと高校の頃に一度経験した別れが、彼らを大人として成長させたのだろう。

支え合い、乗り越えてきた2人だから、あたしは確信をもって言える。

「2人なら、幸せになれる」

 

 

 

学生の頃は気恥ずかしくて、なかなか言えなかったこと。今このときなら、このときだからこそ、ちゃんと伝えたいことがある。

「…真梨」

まっすぐに、あなたを見つめた。

幼馴染、そして一番の親友へ。

「あたしは真梨が大好きです。ずっとずっと大好きです」

真梨が微笑んだ。あたしの大好きな笑顔で。

「結婚、おめでとう。末永く幸せでいてね」

 

 

 

今日は門出の日。

愛する人と結ばれて…

あなたは今日、世界一幸せな花嫁になった。

【瞬 番外編①エピローグ〜未来】

…真梨side……

 

 

 

「…久しぶり。真梨」

目の前の光景。あまりにも信じがたいその光景に、時が止まった…ような気がした。

白い光のなか、その人は幻のようにそこに立っていた。

私に笑いかけながら。

忘れるはずないその瞳。

「…龍我くん…?」

彼は小さく頷いた。

ねぇ、どうして。

どうしてあなたがここにいるの。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

迷った。

正直、すごく迷った。

金指に渡されたメモに書かれていたのは、都会の外れの図書館の名前だった。

彼がなぜ知っていたのかって、あのとき、そんなことを訊く余裕なんてなかった。

ただ、心は揺れた。

真梨と会っていいのか、迷った。

彼女のことを考えると、6年前の思い出がよみがえる。

無理矢理封印した想いが、胸の奥を小さく叩いた。

…会いたい。

久しぶりにオフの今日、電車を乗り継いで、この図書館を訪れた。

まだ建てられたばかりだという。本の匂いのなかに、新鮮な檜の香りが混じっていた。

カウンターは無人だった。そう、初めて出会ったときと同じように……

そこには、カーネーションを挿した花瓶だけが置かれていた。いつだったか、花言葉は"無垢で深い愛"だと、教えてくれたのは真梨だったっけ。

…予感がした。

本棚を見て廻り、君を探した。

真梨はきっとここにいる。

人の気配がした。ひとつ向こうの本棚の裏。

俺は静かに息を吐いて、一歩を踏み出した。

 

 

 

「すごく…びっくりした」

クラシックのBGMが流れる店内で、真梨は小さく息を吐いた。

仕事が終わったら会おう…と約束して、待ち合わせた夜遅くのレストラン。

照明が落とされて薄暗いこの席からは、東京の夜景が一望できた。

「でも…嬉しかった」

6年前よりさらに大人びて、落ち着いたその姿。

けれど、ふわりと頬を緩ませる、その笑顔は、あの頃と変わらず……

「なんか…夢みたい」

真梨が呟いた。

「…この光景も、私たちが、今ここにいることも」

胸が小さく鳴った。

時間を永遠に繋ぎとめておくことはできない。この一瞬…ほんの瞬きですら、息苦しいほど大切なものなのに。

だから、なのだろう。

「…今日は、ありがとう。ごちそうさまでした」

「いや、こちらこそ。久しぶりに会えて……」

夜道の真ん中で、別れようとした言葉が続かなかった。

「…真梨」

胸のなかで抑えつけていた何かが顔を出し、俺は彼女の腕を掴んでいた。

「…まだ、一緒にいたい」

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

「わ、すごい…」

夜でも明るい大通りから少し入った静かな路地に、ひっそりと佇むタワーマンション

18歳、彼が高校を卒業してすぐ引っ越したというそこは、今の私でも到底手に入らないような高級マンションだった。

「…行こう」

龍我くんは、マンションを前に立ちすくむ私の腕を促すように引っ張った。

「…うん」

広いエントランスを抜け、エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。上昇する狭い空間で、自然と高まる鼓動。私たちは、まったく口を開かなかった。

部屋の前に着くと、彼はカードキーをかざした。ガチャン、と解除されるロック。ホテルみたい。

「…どうぞ。入って」

「お邪魔します……」

暗い玄関に一歩踏み入れる。

_バタン

ドアが閉まる音が、暗闇にやけに大きく響いた……

そのとたん、ぎゅっと背後から抱きしめられる。

「真梨…会いたかった」

甘く切ない声で、彼は言った。

「ずっと…あの日からずっと…会いたかった……」

耳元で囁かれた言葉に、私は体中が熱くなるのを感じた。

「私も、…会いたかった。龍我くんのこと、忘れられなくて……」

あなたのことを、忘れた日なんてなかったよ……

あの日、あまりにも唐突な別れ方をしたから。現実を知るしかなかったから、無理矢理抑えつけた涙は、ただ冷たくて苦しくて。

けれど、今流れる涙は、あの日よりもずっと温かくて…とめどなく溢れていく。

龍我くんは、私の体をそっと反転させた。

涙に濡れた瞳が閉じて、私の唇に熱が落ちる。

「っ…」

それはもうあどけないものではなくて、すっかり大人のキスで。

「…ん…ぅ…」

顔の角度を変えて、絡められる舌に息ができない。

苦しくなって、龍我くんの胸板をたたくと、彼はやっと唇を離した。

「いつからそんな甘い声出すようになったの…俺もう我慢できないよ」

余裕のない声に、心臓がドクンドクンと脈打つ。

龍我くんは自分の上着をさらりと脱いだ。そして、私のカーディガンのボタンも、ひとつ、ふたつ…外していく。

そのまま導かれるように、ベッドの縁にそっと押し倒された。膝の下に腕を差し入れて、お姫様抱っこして体勢を整える。

彼は、男の子ではなく、男の人になっていた。

夜空のように黒く澄んだ綺麗な瞳。すぅっとした爽やかな香り。龍我くんのぬくもりを思い出す。

「真梨…愛してる」

熱い息を吐いた唇が、再び重なった。

呼吸するたびに感じるのは、流れ続ける時間。

過ぎ行く時の短さを思いながら、その一瞬を刻みつけるように、私たちは愛し合った。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

「あなたは、まったく…大胆なことをしたものね」

菅野さんは笑いながら、やれやれと呟いた。

「マネージャーを通さずに社長に直談判するなんて…前代未聞よ」

「あはは、すいません」

「でも、あなたらしいわ。社長には何て言われたの?」

ティーカップに口をつけて、長い息を吐く。

「契約が切れたから、あとは好きにしろって言われました」

「それで、好きにしたってわけね」

菅野さんはフッと笑った。

「時が経つのは早いわね。あれからもう10年か…」

憂いを帯びたような瞳が、遠くを見つめている。

 

 

 

『10年契約だよ、龍我』

思い出したのは、社長の一言だった。

17歳、あの頃の俺。

真梨と別れた…その大元の理由である場所に呼び出されたとき、俺はこれからされるであろう叱責の数々を思い浮かべていた。

処分ではなく、叱責。

この程度で、グループ脱退はありえない。たとえ望んだとしても、させてくれないだろう。

17歳。デビュー前、ジャニーズJr.としては一番"おいしい"時期なのだから。

別にそんなひねくれた考え方をしなくたって、俺には夢を切り捨てるなんてできなかった。

この世界で生きていくと決めたんだ。

『…泣いたそうですね』

開口一番、社長はそう言った。

"男としてみっともない"

そう言われている気がして、思わず頭を下げた。

『申し訳ありません。軽率な行動でした』

『勘違いしないでもらいたいけど、僕はそんな形式的な口上は求めていないよ』

思い浮かべていた謝罪の言葉は、彼に遮られた瞬間、頭からとんで消えてしまった。

前社長の椅子を継いで数ヶ月。俺と同じようにアイドルとして生き、今は第一線を退いて後進の育成にあたっているその人の目には、強い光があった。

『ひとつ、契約をしましょう』

それは思いがけない提案だった。

 

 

 

10年契約だよ、龍我。

これから先…今までの何倍も努力して、必ず結果を出すこと。

27歳になったとき…まだ、彼女が君を好きでいるなら、君が彼女の傍にいたいと思うなら、そのときは…好きにしなさい。

 

 

 

どんな気持ちで、どんな考えで…社長があんなことを提案したのか、あのとき俺にはわからなかった。

年の離れた兄のような、独特な包容力を持つその人は、最後にこう言った。

『奇跡を信じない者に、奇跡は起きないからね』

 

 

 

今ならわかる。

4年前、俺は万年筆に隠された真梨からのメッセージを見つけた。そしてほぼ同時期に、金指は真梨の職場を知った。

17歳、偶然と偶然が引き合わせたあの出会いが、4年前の奇跡を生み出したんだと。

そして、先輩でもある若社長は…彼は10年前から、こうなることを予見していたのかもしれない。

 

 

 

_コンコン

扉の向こうから、ノックが聞こえた。

「どうぞ」

声をかけると、ガチャ…とおもむろに扉が開いた。

「佐藤様、お時間です」

「…あら、もうそんな時間」

宙を見つめていた菅野さんの瞳がふと壁の時計をとらえ、彼女は立ち上がった。

「じゃあ、私はお先に失礼するわね。しっかり務めてきなさいよ、…新郎さん」

 

 

 

10年。

長いようで…短かった。

いや、やっぱり長かった…かな。

悲しい別れも経験したけれど、また出会って恋をして、そうして迎えた新たな人生の門出の日。

ふぅ、と息を吐きながら歩を進める。天使の飛び交う繊細な彫刻が施された扉の前に、君が立っていた。

…ウェディングドレス姿で。

「…龍我くん」

耳をくすぐるような声。

カスミソウのブーケをキュッと握って、彼女は少し緊張しているみたいだ。

隣に立つと、その手が優しく俺の腕に添えられた。

「…行こう、真梨」

厳かに鐘が鳴り、扉が開いた。

 

 

 

あたたかな日射しが降り注ぐチャペル。

祭壇の前で、真梨は泣き笑いのような表情で俺を見つめて、ふわりと微笑んだ。

"必ず君を幸せにします"

あの日、幼心に書いた詩が、胸をくすぐった。

泣いてばかりだった17歳の自分に、27歳になった俺は今どんな言葉をかけるだろう。

夢を叶えて…大切な人を、やっと迎えに来ることができたよ。

その瞳を、その笑顔を、守ってみせる。

これから先も、ずっと。

「You may now kiss the bride.」

愛しい君を瞳いっぱいに閉じ込めて……

春の空の下、"瞬き"は"永遠"に変わった。

【瞬 エピローグ】

…龍我side……

 

 

 

暖かい風が桜を揺らす春。

太陽が照りつける暑い夏。

木の葉が美しく色づく秋。

雪降る夜に誰かを想う冬。

また新しい芽が吹いて。

そうして季節は繰り返される。

高校を卒業してから、俺は大学へは行かず、仕事に専念することにした。

というのも…

『ジャニーズJr.ユニット、堂々CDデビュー!』

6人で歩んできた道に、ひとつの区切りがついたからだ。

必ずしも努力が報われるとは限らない厳しい世界。そのなかで輝ける場が与えられていることに、日々感謝することは忘れない。

仕事の幅は広がり、学生の頃と比べものになないくらいにその量は増えた。

時間を忘れてしまうほど忙しい日々…

気づいたら、ハタチを超え…

「5周年おめでとう! かんぱーい!」

俺は22歳。"美 少年"は、デビュー5年目を迎えた。

「いやぁ〜久しぶりだね! こうしてメンバー全員で飲むのは!」

ほろ酔い気味の大昇が、招き猫みたいに目を細める。

「みんなプレゼント交換は何持ってきたの?」

「何その謎のクリスマス制度。まだ5月ですけど」

「え、金指持ってきてないの!? グルチャで言ったじゃん5周年は盛大に祝おうって」

「と焦らせつつ…実はルンバがここにありまーす!!」

「ルンバぁ!?」

真向かいに座っていた浮所がブハッと吹き出した。

「ちょっ、ルンバとか持ってくんなよ金指!」

「いやそれ持ってきたの俺! 金指じゃなくて俺!」

「そう! 大昇!」

「違う違う、俺だってば! 那須だよ那須

「金指、飲みすぎちゃって、ぐでんぐでん。へへっ」

「いや大昇お前もなかなか酔っ払ってるからね!?」

「いやマジ一世がこうなったの那須のせいだかんね」

「ちょっと待ってなんでそうなるのぉ〜!」

これは相当できあがっている。落ち着いているのは藤井くんと俺だけだ。

あー…やれやれ。

失笑しながら、バッグからメモ帳を取り出す。数年前に作詞を始めてからネタ帳として使っているそれに、ペンをさらっと走らせた。

「あれ龍我やけに静かじゃん? どうしたの」

「いや何でも〜!…じゃあプレゼント交換大会、いっきまーす!」

「イェーーーーイ!!」

男6人の歓声が、居酒屋の個室に響いた。

 

 

 

「…さて、まとめますか」

ひとりの部屋で呟いて、メモ帳を広げる。

黒いペンケースをカチャリと開けて、万年筆を取り出した。

歌詞を書くときにしか使わないそれを握るとき、いつも不思議と頭が冴えて、気が引き締まる。

…真梨が傍にいるような気がして。

先日マネージャーから依頼されたのは、"仲間"をテーマにした曲の作詞だった。

さっきまでの飲み会もとい"美 少年デビュー5周年おめでとう会"で生まれた数々の名言(迷言)を見返しながら、万年筆を滑らせようとしたそのとき。

「…あ」

鋭いペン先はその役割を終えて、スッと紙をかすった。

…インクがなくなったのは、初めてだった。

詰め替えのインクは、ずっと前に既に買ってある。使用頻度の少ない万年筆に長らく放置しっぱなしだったそれを出してから、万年筆の胴体の軸部分をくるくる回した、そのときだった。

_カサリ

何かが擦れる音が聞こえた。

胴体が2つに分かれた万年筆。

そのカートリッジに、1枚の紙が巻きつけられていた。

 

 

 

『今、幸せですか?』

 

 

 

紙をそっと…開いた指が震えだした。

条件反射のように目頭に集まった熱。ぼやけていく文字。

「真梨……」

久しぶりに口にしたその名が、その人が、頭のなかによみがえってくる。

なぁ…これはないよ……

"龍我くんへ"

あのカードに、続きがあったなんて。

こんなに時間が経ってから…それに気づかせるなんて。

甘くて儚くて、瞬く間の2人だったけれど、何よりも幸せな時間だった…6年前。

君は今もあの頃のまま、変わらず俺の胸のなかにいる。

 

 

 

「龍我ったら、ほんとわっかりやすいんだから」

向かいに座る金指が呆れた声を漏らした。

「すいませ〜ん、ビール1本追加で」

その可愛い口からは想像できないようなワードが飛び出す。

やがて運ばれてきたビールを、俺は勢いよく開けて無言で注ぎ一気に呷った。その後に、ゆっくりと注いで口をつける金指。

「…真梨ちゃんのこと、気になるの?」

訊くなよ、そんな…こと。

答えなんてわかってるくせに。

そのまっすぐな視線から目を逸らしてジョッキを掴んだ手は、彼によって止められた。

「龍我、これ」

金指は小さなメモをテーブルの上に滑らせた。

そのメモに書かれているものを見たとき、直感が心臓を緩く鳴らすのがわかった。

「俺この後用事あるから。…もうそのへんにしときなよ」

自分でオーダーしたくせに例によってお勘定を俺に任せるあたり金指らしい。

けれど、二言目が指しているのはビールだけじゃないような、そんな気がした。

 

 

 

…金指side……

 

 

 

手のひらに握りしめていた選択肢を、龍我に渡してしまった。

酔った勢い…じゃない。龍我といるとき、俺は酔わないようにしているから。

『…一世』

やんちゃな"姉"から、手紙が来たときはびっくりしたけど。

一度は捨てられたはずの…連絡先。そのなかに、高2の俺は住所を登録していた。

覚えていたのだ、彼女…夏菜子は。

いずれ"その日"が来ると信じて。

俺なりに考えた。

お互いに社会人。俺たちはもう立派な大人だ。

あの頃よりずっと酸いも甘いも知って、噛み分けてるつもりではある。

だからこそ…だと思った。

龍我が万年筆に隠されたメッセージを見つけたとき、そのときが来たんだと直感した。

2人の再会するときが。

『もう…いいんじゃないかな』

久しぶりに会った日、ためらいながらもその場所を伝えてくれた彼女。

彼女はずっと、タイミングをはかっていたんだと…そのとき、知った。

並んだ2人の笑顔が見たいと、俺たちはずっと望んでいたんだから。

あれからもう6年も経ったんだ。

澄んだ夜空を見上げた。

神様は、許してくれるはずだ。

俺が、2度目のキューピッドになっても。

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

初夏。

木漏れ日が射す窓際のカウンター。

綺麗にカットしたカーネーションの花瓶をそっと置いた。

たくさんの本の匂いに混じって、すん、と淑やかな香りがする。

心が落ち着く、大好きな時間。

22歳。大学を卒業した後、私は司書として、この図書館で働き始めた。

忙しい都心から少し外れた、緑溢れる静かな図書館。

人があまりいないうちに、新刊本の配架作業に取り掛かる。自分の仕事を早く片付けてしまおうとするのは、学生の頃からの癖かもしれない。

本棚の一番低い段に最後の本を入れ、立ち上がったときだった。

私の耳は、ほんの小さな音をとらえた。

…誰かが歩いてくる。

私は口元を手で覆った。

…あぁ、この足音を、私はどこかで……

記憶の扉が叩かれたと同時に、すぐ後ろで止まった…足音。

「…すみません、本を探しているのですが」

その声が鼓膜を震わせた。

私はゆっくりと振り向いた……

 

 

 

【瞬 〜完〜】

 


⇒番外編に続く

【瞬 第11話 夢③】

夏菜子side……

 

 

 

3学期、始業式。

教室のドアを開けるとき、あたしの手は強張った。

唇を噛みしめて、勢いよくドアを開ける。

「…って、いるわけないよね」

窓際の一番後ろの席で文庫本を開く、その姿はやっぱりない。

澄んだ冬空の陽光が眩しく降り注ぐ教室。

ハム太郎〜、元気?」

静かな空間に、あたしの声がやけに大きく響いた。

ケージを開けてエサを取り替え、手に乗せたハム太郎を見つめたとき、

_ぽつ

小さな体がピクリと震えた。

「あ、ごめんごめん」

突然の感触にびっくりしたのか、落ち着かないハム太郎をケージに逃がす。

はぁ…もう。

潤んだ目をぎゅっと瞑って、再び開いたとき、冬の寒さが目にしみた。

真梨…今頃、どうしてるかな。

転校先の学校でも、誰よりも早く登校して、静かに本を読んでいるんだろうか。

夢であるならと、何度も思った。

真梨の退学は嘘で、実は盛大なドッキリでしたー、なんて…

「あたし、なに考えてんの…」

真梨は冬休み前の2週間、誰にも言わずひとりで考え続け、退学届を提出した……

紛れもない事実だというのに。

 

 

 

12月17日。あの日の夜、携帯が鳴った。

退学すると知って弾かれたように一世に電話した後、あたしは携帯を開いていなかった。真梨の口から退学を告げられたら、それは事実ってことで、とても受け止めきれる自信がなかったからだ。

夜になり、静かな部屋に着信音が響いたとき、それが真梨だとすぐにわかった。

電話じゃなくて、LINEでよかった。電話だったら、泣いているのがバレる。余計な気を遣わせたくない。

『急にいなくなってしまってごめんね。転校することになりました。今まで仲良くしてくれてありがとう。別々の学校になるけど、夏菜子は夏菜子らしく、元気で明るくいてね』

真梨らしい文章だった。

なんで退学させられたとか、誰にも言えなくて本当はつらかったとか、そんなことは一切書かれていなかった。

文章の最後に新しい連絡先が添付されているのを見て、龍我とは完全に切ったのだと知った。

真梨が決めたことだ。

他でもない、彼女が。

元気で明るく…

それが彼女の願いなら。

あたしは笑顔でいよう。

泣きながら、そう決めた。

 

 

 

あとで訊いたら、麗華にも真梨からのLINEが届いたらしく、2人でまた泣いた。

その麗華とは、冬休み中、学校に呼び出された。

『あなたたち、まさかとは思うけど、佐藤くん金指くんと連絡先交換してないわよね?』

学校側は徹底して、真梨と龍我を繋げるものを排除するつもりらしかった。

『まぁ、もし交換していたとしても…佐藤くんたちにも連絡先を変えるよう指示したから、大丈夫だとは思うけど』

その言葉で、連絡先はもう繋がらないと、つまり削除するしかないと思い知った。友達どうしだったあたしたちでさえ、ちゃんとしたお別れはできなかったのだ。

突然の退学にクラスメートはもちろん驚いていたけれど、すぐに納得した。いや、納得させられた。

なぜなら真梨は、"校則違反で"退学したのだから。詳しくは語られないその事情に、誰も疑問を投げかけることはできなかった。

だから彼らは、真梨が龍我と付き合っていたことを知らない。知らなくていいことだけど、2人の思い出をすっかり消し去ってしまった学校は、あたしには寂しい場所にしか見えなかった。

 

 

 

何より龍我のことが心配だった。

テレビに映る彼は相変わらず笑顔を浮かべていた。アイドルとしては百点満点の笑顔を片時も絶やさずに。

けれど、友達のフィルターを通して見たとき、それは明らかに作り笑顔だった。カメラには決して映らない。表情を隠している。必死に本心を隠している。

今や連絡先も知らない彼に、伝える方法はひとつしかない。

そして伝えた。

ひとりのファンとして、あたしはいつまでも応援してるから…

『あなたの味方です』

つらいときは助けてくれる仲間がいる。

だから…幸せになって。

今の場所で、自然と笑えるようになって……

それが、真梨の願いだから。

 

 

 

…金指side……

 

 

 

「真実が知りたい」

ある日、龍我はそう言った。

年が明けて…3学期。

冬休み中、彼なりに踏ん切りをつけたのか、ずいぶんさっぱりとした表情だった。

「あえて俺に言ってないこととか…あるだろ?」

あるには、ある。

ちらりと視線を向けた先、その席は空白のままだ。

橘菜摘。

始業式から1週間、彼女は学校を休み続けている。

俺が…傷つけたようなもんだけど。

『よくそんな笑顔、浮かべてられるよね。…秘密破っといてさ』

12月17日、真梨ちゃんの突然の退学を聞かされた日。

龍我と2人で出演した大型番組。偶然にも同じ場所に、橘さんがいた。

なんで。どうして。

激情のままその楽屋に押しかけると、彼女は膝から崩れ落ちた。

『ごめん…ごめんなさい…!』

メイクが崩れるのも構わず、橘さんは両手で目を覆って泣きじゃくった。

『別に謝ってほしいわけじゃないんだけど』

俺の声にはまだ棘があった。彼女の涙を拭うつもりはない。

『どうしてこうなったのか…教えてほしい』

ただ、知りたい。

秘密を共有し、守ると誓ったあの日の橘さんを、俺は信じたかったから。

『心変わりしたの?』

彼女は首を横に振った。

『じゃあ、どういうこと?』

涙に濡れた瞳が俺を見上げた。

『先生に言ったのは、私じゃなくて…』

そして続いた言葉に、俺は目を見開いた。

橘さんは俺の前で、苦しそうに顔をゆがめた。

『お願い、彼女を責めたりしないで……。悪いのは私だから。約束を破った私だから……』

悲劇のヒロインは嫌いだ。自己犠牲も嫌いだ。

『責めるつもりはないよ』

橘さんが背負う必要はない。そして"彼女"も背負う必要はない。

『約束に、優先順位なんてない。自分の気持ちで選んだなら、それが自分にとって正しい選択だったってことだよ』

 

 

 

「正しい選択…」

龍我はぼんやりと呟いた。

学校を休み続けているかわりに、テレビではよく見かけた。去年の初主演ドラマが大ヒットしたせいか、業界では引っ張りだこだ。

今休んでいるのも、仕事が理由だといいけど。

「今度学校来たとき話してみるわ、俺」

龍我の言葉に、俺は頷いた。

「それから…感謝しとく」

「感謝?」

「もっと悪い事態が…もしかしたら起きてたかもしれない。だからその前に終わらせてくれてありがとうって、伝える。…神木と、志田に」

 

 

 

…橘side……

 

 

 

「菜摘ぃ! 待ってたよ!」

教室に入ったとたん、クラスメートが抱きついてきた。

「…ありがとう」

ちらりと教室の奥に目を向けると、志田さんと目が合った。ロシアンブルーのような瞳が、うっすらと緩んだ。

自分の席につこうとすると、

「…橘」

その声に、私は顔を上げた。

「…大丈夫か?」

たった一言、その一言に、胸がじんわりと熱くなる。

「…私は大丈夫。佐藤くんは?」

「…俺も大丈夫だよ」

それだけだった。

すれ違うように、彼は去っていった。

傷ついた者どうし、これ以上、掘り返す必要はない。

私はまた、佐藤くんに救われた。

 

 

 

…志田side……

 

 

 

放課後の教室で、窓にもたれて外を見ていた。すっかり葉を落としたプラタナスの枝が寂しげに揺れている。

「…佐藤」

隣に立つ彼にそっと呼びかけた。

「なんで…彼女のこと好きになったの?」

訊いた瞬間、愚問だと悟った。

彼はやわらかく笑った。

「なんでだろうなー……気づいたときには、好きになってたから……」

恋愛は…難しい。恋したことのない私が思うよりずっと。

きっかけなんて些細なことだ。日常の延長線上で、ふと出会った人に心が持っていかれて、あたたかい気持ちになる。

誰もが、いつかは恋に落ちる。

「…守りたくて」

ほろりと漏らした直後、佐藤はすぐに照れたように笑った。

「…なーんて、カッコつけてんな俺」

カッコつけ…じゃないよ。

守りたい。守りたかった。

きっとそれは本心だろう。

小さな後悔が胸を優しく引っ掻いた。

「さっき『ありがとう』って言ってくれたけど…本当に、私の判断が正しかったのかどうか…」

「不安にならないでよ」

佐藤はきっぱりと言い切った。

「志田がそんなこと言ったら、俺が別れた意味がなくなる」

「そっか…そうだよね。ごめん」

「…それに」

彼は私からふっと目を逸らし、白い冬の空を見上げた。

「…俺だけの力じゃ、真梨のこと守れなかったから。だから、感謝してる」

風が吹いた。

「じゃ、俺…帰るから」

「うん、じゃあね」

佐藤の背中を見送りながら、ふと胸を掠めた予感があった。

もう一度会う、と思う…運命の人なら。

直感だ。願望から生まれた直感。

2人が再会する保証はない。

けれど、でも。

"奇跡"は起きる。

きっと……

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

「俺たちがー?」

「"美 少年"!!」

幾重にも連なる波紋のように、歓声が広がっていく。

見上げると、まばゆいライトが目にしみた。

ファンの人たちとひとつになる、この瞬間が一番好きだ。

『"美 少年"として輝く夢を……』

…ねぇ、真梨。

俺はやっと…歩き出せたと思うんだ。

君が残してくれた思いを、ちゃんと果たさなくてはならない。

そう決めて、やっと歩き出した。

「みんな、アンコール出てちょうだい!」

菅野さんの忙しない声を合図に、キラキラと輝く会場に再び飛び出す。

迎えてくれる歓声。

ここには必要としてくれる人たちがいる。

それが、俺の幸せだ。

 

 

 

ねぇ、覚えてる?

春風が迷い込む、小さな奇跡が起きた日のこと。

あれからいくつの日々を重ねて、この想いを募らせて。

いつしか君は、かけがえのない人になっていた。

君の笑顔が僕の全て。

叶うならずっとそばにいて、一番近くで君を見ていたくて。

いつかくる終わりも、永遠と信じられたよ。

涙ばかりの恋。

僕は君を幸せにできたかな。

 

 

 

「あ、そのペンめっちゃオシャレ。龍我っぽいね」

隣に座った金指が、俺の手元を見て言った。

「そう? ありがと」

「歌詞書いてんの?」

頷いて、万年筆を握り直す。

「ラブバラード。通るかどうかわかんないけど、佐藤龍我初作詞です…」

「おぉマジですか、期待してます」

紙を見つめる。

歌詞のラストはもう決めている。

 

 

 

いつかまた巡り会えたら、

必ず君を幸せにします。

【瞬 第11話 夢②】

…龍我side……

 

 

 

『私ね、ほんとに…龍我くんに出会えて、良かったと思ってるよ。…すごく幸せ』

微笑む真梨に愛しさが募る。

『うん、俺も幸せだよ』

目の前の笑顔が、

『真梨……』

…大好き。

 

 

 

「っ!」

目が覚めた。しんと冷えた空気が体をくすぐった。

また同じ夢か……

ため息をついて窓の外に目をやると、うっすらと白い雪が積もっている。

初雪が降ったあの日…12月17日から、1週間。

「…誕生日おめでとう、真梨」

机の上には、もう渡せない紙袋。

金指と一緒にプレゼントを買いに行ったときは、こんなことになるなんて思ってもいなかった。俺の誕生日も、君の誕生日であるクリスマスイブも、一緒にいられるんだと思っていた。

この1週間、胸の真ん中にぽっかりと開いた穴を埋めるように、ひたすら仕事に打ち込んだ。

…会いたい。そう思うのはもうやめた。

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』

あの日、携帯越しに聞こえた無機質なメッセージも、衝撃のまま送ったLINEのメッセージにいつまでも既読がつかないことも全て、理解した。

"真梨自身が"俺との関係を終わらせた。

情けない。俺だけが、いまだに未練がましく、彼女の連絡先を消すことができずにいる。

ただ繰り返す日々を、受け身に過ごす。

出会う前に戻った…ただそれだけなのに、真梨のいない日常は色をなくしていた。

「今日の本番も力入れて頑張ってこう!」

「はい!」

12月から始まった舞台"Johnnys' Island"座長の平野紫耀くんの声に、出演メンバーが盛り上がる。

「よっしゃ行くかー!」

胸にぽっかりと空いた穴を埋めるのに、仕事は最適だった。どんなに忙しいスケジュールでも構わない。勉強して、歌い、踊り、帰宅したら台本を読みながら疲れて眠る。ただ、真梨のことを忘れられる時間が欲しい……そしてそのまま時が過ぎて、気持ちが楽になるのを待つのだ。

「ちょっと、大丈夫…?」

金指が小声で訊いてきたけれど、「大丈夫、大丈夫」と笑った。

「"美 少年"売り出してこなくっちゃ」

俺には任されたポジションがある。グループの知名度を上げること。その使命があれば、そのためだけに、仕事に熱を入れられる。

もう二度と会えない。

これは終わった恋だ。

灰色の世界に、カサカサに渇いた色を塗るような、そんな日々が続いた。

そう、それは所詮…灰色であることに変わりなかったのだ。

 

 

 

「龍我」

舞台の合間の休憩中、台本を読み込んでいるとき、菅野さんに呼ばれた。

「はい、なんですか?」

ここ数日ですっかり慣れてしまったアイドルスマイルを浮かべて振り向いた俺に、菅野さんは無表情のまま淡々と告げた。

「ちょっと来なさい」

そして俺の腕を掴んでスタスタと歩きだす。

「え、ちょっと俺これ覚えなくちゃ…」

「その程度なら5分で覚えられる。今はそれより大事なことよ」

楽屋が並ぶ廊下の一番奥、"会議室"と書かれたドアを開ける。

ガチャンと音をたててドアが閉まると、大きくため息をついて、菅野さんは口を開いた。

「あなたに言っていいものか迷ったんだけど」

手元のファイルから1枚の封筒を取り出して渡される。

「…ファンレターですか?」

いつもなら、事務所にある個人ボックスから取っていくものだ。訝しく思いながら、目を通す。

『龍我くんへ。入所当時からずっと応援しています。…』

その字に既視感をおぼえた瞬間、文章を追っていた目が止まった。

「あなたはうまく隠してるつもりなのかもしれないけれどね。気づいてる方もいらっしゃるのよ。あなたの…"笑顔"に」

きつく張った糸が…切れた瞬間だった。

「時が解決してくれる…なんて、そんな甘いもんじゃないはずでしょう? あなたの恋は」

菅野さんは言った。

「ちゃんと向き合いなさい。向き合って…嘘のない笑顔でいられるように」

もう一度手紙を見つめた。

妹に似た、まるっこい字が、語りかけるように書かれている。

『おせっかいかもしれませんが、龍我くんに伝えたいことがあって書きました。あなたにはメンバーがいます。ファンがいます。みんなあなたの味方です。佐伯夏菜子』

 

 

 

冬休みの補習のために登校した日、授業が終わった後、俺は校長室に呼び出された。

金指を先に帰らせてから、ひとり校長室の前に立つ。

覚悟はしていた。

きっと真梨のことを言われるのだろう。

_ガチャン

重い扉を開くと、黒い革張りの椅子に座る校長と、目が合った。

「…なぜ呼び出されたのか、わかるね?」

俺は何も言わず、ただ校長を睨みつけていた。

明らかに答えの分かる問いかけに…答える必要はない。

「今日は、水瀬のことで…話しておきたいことがあって、君を呼んだ」

胸の奥に、杭が打ち込まれるように、鋭い痛みが刺した。

偽りの笑顔で固まりかけた血が、再びドクドクと流れだす。

今更なんだっていうんだ。

「言い訳に聞こえるかもしれないが」

校長はそう前置きした。

「彼女を確実に守る方法は、ひとつ。退学させることだけだったんだよ」

何を言いだすかと思ったら、本当に言い訳…円満な解決策という名の言い訳にすぎない。

「他に何かなかったんですか…」

思わず漏れた言葉が頭に響いたとたん、堰が外れた。

「他の方法! 何かあったはずだろ! 退学しなくて済む方法が! なんで、なんで…っ!」

まるで負け犬の遠吠えだった。情けなかった。

退学以外方法がないことなんて、考えずともわかる。

けれど、このときの俺に、そんなことを思う余裕などなかった。

「真梨が退学するなんて…聞かされないまま、気づいたときにはもう……せめて、せめてちゃんと、別れさせてほしかった…!」

感情は止まらない。怒りか悲しみかやるせなさか、ぐちゃぐちゃに混ざって黒く濁った感情が、次々に溢れ出てくる。

このときだけは、アイドルじゃなくて、1人の人間でいさせて。

吐き出した。今まで堪えていたすべてを。

校長は冷静な目で、俺を見ていた。

「そうか…君には何の相談も?」

「…は?」

なんだよ、いきなり。

「何の相談もさせずに退学させたのはそっちだろ!? 無理矢理別れさせられて…」

まくしたてた言葉は、あまりにも静かな校長の表情を前にしてこれ以上続かない。

この人はきっとわかっていた。ここに来て向き合えば、俺が散々に罵り抗議することを。気持ちが鎮まるまで俺に吐き出させ、それを当たり前に受け止めている。

「君に相談をしなかったのは、水瀬本人の意思だ。退学届を提出しに来たとき、そう言っていたよ。君に迷惑はかけたくないと」

落ち着いた口調で、まっすぐ俺を見る瞳は、静かな厳しさを湛えていた。

「水瀬は」

黙り込んだ俺に、彼は一呼吸おいて言った。

「君の夢を選んだ。君が芸能界で、"美 少年"として輝く夢を、優先させたんだよ」

 

 

 

図書館の前を通りかかり、思わず足を止めた。

冬休み。閉館時間を過ぎて、誰もいない図書館。

引き寄せられるようにセンサーに手をかざすと、音もなく開く自動ドア。

高鳴る鼓動を抑えながら、向かう足は…書庫に辿り着いた。

_ガチャ

古本のにおいに、胸が詰まった。

微かに舞う埃が鼻をくすぐり、むず痒さが目頭に込み上げた。

真梨と、一緒にいた時間。ここは2人の、2人だけの場所だ。

円形のテーブルに、1冊の本が置かれていた。

真紅の装丁の分厚い本。タイトルはない。

表紙をめくったとき、俺は息をのんだ。

本だと…思っていたそれは、ブックボックスだった。

四角く切り取られたスペースに、1本の万年筆と、小さなカード…

『龍我くんへ』

震える手で、万年筆とカードを取り出す。

胸に抱いたとたん、愛しさが喉元まで築き上げてきた。

「うわぁぁぁぁぁ!!」

床に膝をつき、俺は嗚咽をあげた。

 

 

 

真梨。

君を心から…愛してた。

【瞬 第11話 夢①】

…真梨side……

 

 

 

12月2日。

それは突然の告知だった。

「水瀬さん、ちょっといいかしら?」

図書当番で図書館にいた私は、急遽担任の先生に呼び出されて、席を外すことになった。

「なんですか?」

廊下を歩きながら先生に訊いても、「あぁ…ちょっとね」と曖昧にはぐらかされる。

連れてこられたのは、

「生活指導室…」

プレートの文字が揺れた。

あっという間にぼやけたそれを、拭うことができない。

先生は私を見下ろした。

「思い当たる節があるようね」

その目は、静かな怒りを秘めていた。

 

 

 

押しつぶされそうなほど重苦しい空気が漂うなか、私は先生と向かい合った。

「あなたには驚かされたわ…」

彼女の一言目はそれだった。

「まさかこんなことしてたなんて…最初は信じられなかった。成績優秀だし、非の打ち所がないというのは、水瀬さん、まさにあなたのことだったのに」

それは明らかに、失望の…言葉だった。

この人は、学校は、私に何を期待していたというのか。

「私もね、つらいのよ? あなたみたいな素晴らしい生徒を失うのは」

そんな言葉、偽善にしか聞こえない。

「でも、規則は規則だから」

さらりと出されたのは、予想通りのものだった。

"自主退学書"。

"自主"とは名ばかりで、これは強制力のある、れっきとした退学届だ。

名前を書いて、押印すれば…私は東城高校の生徒ではなくなる。

否が応でも、私が退学させられることは決まっていた。

「自分が何をしてしまったか、きちんと反省しなさい」

反省? 何を反省しろというの?

「酷なことを言うようだけど、校則違反は悪いことなのよ」

悪い? この恋が悪いことだというの?

「自分がどんな立場なのか考えて…答えを出しなさい」

答えなんて、ひとつしかないじゃない。

私に、もはや選択肢は残されていなかった。

「2週間、考える時間を与えます。期末テストを挟むことになるけれど……16日までに、これを提出してください」

そうだ。私はもう、お払い箱なのだ。こんな厄介事は、冬休み前に収束させたいのだろう。

"さっさとこの学校から立ち去れ"

そう言われているような気がした。

「…それから」

先生が口を開く。今度は何……

「退学については、この学校の誰にも話したりしないこと」

「え…?」

「わかるでしょう? …特に、彼の性格なら」

その言葉が、すべてを物語っていた。

私の思考は、驚くほど冷静にまわった。

別れることを切り出せば、龍我くんは間違いなく私に理由を訊く。そこで退学させられると話したら…彼はきっと、どんな手を使ってでも、下された決定を覆しに行くだろう。

そんなことをしたら…彼の評価は地に落ちる。

スキャンダルを恐れる学校は、彼を手放したくないはずだ。けれどもし、彼に目立つ行動があるようなら…"見捨てる"選択肢だってある。

トレイトコースという、芸能科を抱える訳ありの学校だ。週刊誌はじめ様々なメディアの内通者が、校内にいたとしても不思議ではない。だとすれば、噂が広まる前に、その根源である彼を排除する。その可能性は十分ありえる。

そうなれば…彼の努力、今まで積み上げてきたものがすべて崩れてしまう。

今まで私を大切に想ってくれたぶん、どんな行動をとるかはありありと想像できた。

私は……

私は、それを望まない。

龍我くんが"アイドル"を捨ててまで一緒にいようとすることを、私は望まない。私がすべての責任を引き受けて退学すれば丸く収まる。

だから、誰にも言わずにこの学校を立ち去れと。

「…わかりました」

そう言うと、先生は深く長く溜息をついた。

「まったく…相手が悪かったわね……」

机の下で握りしめた拳に、思わず力が入る。

遠回しに彼を罵られた怒りと何もできない自分の情けなさ、その両方で震える手を抑え、強く強く握りしめた。

耐えて、耐えて。

今ここで感情のままに動いたら、私はいよいよ…"水瀬真梨"ではいられなくなってしまう。

未練なんてありません。もう恋なんてしていません。

潤んだ目に気づかれないように、深く頭を下げた。

「…このような行為にはしってしまい、申し訳ありません。当然の処分だと思っています。本当に申し訳ありませんでした」

自分の声が遠く聞こえた。

私は…最後に、本心を隠した。

 

 

 

『真梨』

優しいその声が、

『大好き…』

その言葉が、すべてだった。

すぐ傍で、幸せでいられるなら、それでよかった。

望みすぎ、だったんでしょうか?

 

 

 

机に広げたまっさらな退学届を見つめた。

まだ書くことができないそれ。何度見ても変わらない現実。

こんなもの、破り捨ててしまいたい。

泣き疲れて痛む頭と、ぼんやりと霞む意識。

_ガチャン

玄関の鍵が開く音が響いた。

家族には話さなくちゃ……

私はふらふらと立ち上がった。

今まで隠し続けてきたすべてを…話すために。

 

 

 

「お、お姉ちゃん…?」

妹の前では泣かないと決めていたのに。

「それ…本当?」

頷くのが精一杯。

夏菜子と同じで、"美 少年"のファンである妹。

そのショックは、前例があるから容易に想像できた。

アイドルは夢を売る仕事だと…いつか龍我くんが言っていた。たとえ仮想であっても、ファンにとっては"彼氏"であり"憧れの人"なんだよって。

私を責めていい。

ファンにとって見たくない現実を見せてしまったのは、私だ……

「お姉ちゃん…」

やわらかい羽のように、妹の声が私を呼んだ。

「つらい…よね。つらかった…でしょ? 誰にも言えなくて……」

おそるおそる、顔をあげる。

妹は、泣いていた。

「でも、すごいね……」

泣きながら…微笑んでいた。

「龍我は…人を見る目があるんだね……。それでこそ、あたしが応援してる"美 少年"の龍我だよ……」

ひとつひとつ、言葉を紡ぐ妹。

「あたしの自慢のお姉ちゃんだもん。龍我には、それがわかったんだよ……」

ねぇ、それは本心…?

いつか傷つけるとわかっていて、恋をした。許されない裏切りの恋だった。

「お姉ちゃん、お願いだから…龍我と出会ったこと、後悔なんてしないでね…」

妹は泣きじゃくりながら、私にぎゅっと抱きついた。

「ごめん…ごめんね、沙耶…」

背中に手を回す。

「ありがとう……」

 

 

 

その日、フラワーアレンジの講習会で夜遅く帰ってきたお姉ちゃん。

両親と離れて暮らし始めてから、母親代わりに育ててくれたお姉ちゃんにも、すべてを話した。

お姉ちゃんは黙って聞いていた。

そして、私が話し終えると、口を開いた。

「…あと2週間しかないなら」

そこで言葉を切り、まっすぐに私を見つめた。

「その2週間をどう過ごすべきか…考えてみなさい。龍我くんとの時間、友達との時間を…残りの時間をどう過ごしたいか。自分なりに答えを出して、悔いのないように」

お姉ちゃんは、過去を振り返ることはしなかった。

「…よく頑張ったね、真梨。大丈夫」

ただそっと、私の背中を押してくれた。

 

 

 

残り僅かな時間を、どう過ごすべきか……

一晩中考えた。

龍我くん。金指くん。夏菜子。麗華。みんなのことを。

そして朝…

答えが出た。

何も言わずにあなたのもとを離れなくてはいけないなら…

笑顔でいよう。最後まで。

 

 

 

「真梨! やっはろー!」

読書する私のもとに、ウサギみたいに駆けてくる夏菜子。

気の抜けた挨拶が、私の元気の源だった。

やがてクラスメートが続々と登校し、教室は賑やかになる。

「麗華ー! 来てきて!」

そして集まるいつもの3人。

「ねぇ、昨日那須が出てた番組観た?」

「観たわよ」

「えーっ、うらやま! もう期末1週間前だからってさ、母親が点けてくれなかったんだけど!」

「ペットSPだからキナコちゃんとひたすらイチャイチャしてて…ふふ」

「あー、何それ! 麗華勝手にネタバレしないで! 超気になるから!」

いつもと変わらない…大好きな友達。

3人でたくさん話した。たくさん笑った。

…忘れたくない。

お別れしても、忘れられない…きっと。

 

 

 

12月14日。

私にとって…最後の登校日。

しんと冷えた書庫の空気のなか、

_ガチャ

ドアが開く音に、胸の奥がきゅんと熱くなる。

「あ〜…さみぃ」

手のひらに息を吹きかけて、私を見ると「おはよ」と笑った。

「おはよう、龍我くん」

「ここ寒くない? エアコンないんだっけ」

「手袋してくればよかったのに…」

彼の冷えた手をとった瞬間、その手に優しく引っ張られて、私は抱きしめられていた。

「…湯たんぽ、あるからいいや」

こもった声でそう言って、口元が綻ぶ。

冷気を纏った体から、冬のにおいがした。

最後の日…

会うのは、これが最後……

「ありがとう、龍我くん」

「どうしたの、急に」

「…なんでもない。なんか、言いたくなったの」

なんだそれ、と照れたように彼は笑う。

あぁ…この笑顔が、好き。

泣きそうになるのを堪え、私も笑って応えた。

目に焼きつけておこう。

龍我くんの笑顔。

綺麗に澄んだ瞳も、口角の上がった唇も、照れたらすぐ赤くなる耳も、胸をくすぐるような声も、全部全部、覚えておこう。

 

 

 

…時計の針は、とうとう7時を指した。

「そろそろ行かなくちゃ」

立ち上がってスクバを肩にかける龍我くん。

今すぐにでも引き止めたい衝動に駆られた。

ダメだ、泣くのだけは絶対にダメだ。

最後まで笑顔でいるんだ。

「じゃあまた明日ね。真梨」

「…うん、また…」

明日は、ない……

「…じゃあね、龍我くん……」

背を向けて彼は歩き出す。

私も背を向けて歩き出す。

「…うっ、うぅ……」

手の甲を口に押し当てて、必死に声を飲み込んだ。

振り向かない。もう二度と。

ごめんね。

ごめんね、龍我くん。

何も言えないまま…あなたの前からいなくなること。

きっと悲しませてしまうから。

だから最後に、奇跡を願わせて。

 

 

 

12月16日。

募る気持ちは堰を切って溢れた。

先生から渡された紙を見つめる。

"自主退学書"と書かれたそれにペンをはしらせながら、次々と浮かんでくる思い出に胸が締めつけられる。

初めて出会った図書館。

書庫で過ごした時間。

毎週土曜日の帰り道。

修学旅行の夜のデート。

私の家に泊まった日。

『好きだよ』って何度も言ってくれて…

恩返し…できたかな。

もし叶うなら、あなたとずっと一緒にいたかったよ…

私と出会ってくれて、私を好きになってくれて…本当に、ありがとう。

 

 

 

龍我くん。

私はあなたが…大好きでした。

【瞬 第10話 別れ③】

…金指side……

 

 

 

廊下には、何も聞こえてこなかった。彼の泣き声も何も。

分厚い壁が塞いでいるのか、あえて声を小さくしているのか…どちらにしろ、俺には入り込めない龍我の心の内がそこにはある。

泣きたかったんだ、ずっと。

微かに潤んだ瞳はカメラにどう映っただろう。アイドルらしい輝きだっただろうか。誰が…泣きたくて、泣けなくて、ぐっと堪えた"笑顔"だと分かるだろう。

つい2時間ほど前、自販機の前で突然着信を知らせた携帯。慌てて周りに人がいないのを確認してから出ると、真っ先にうろたえた声が飛び込んできた。

『一世、どうしよう…どうしよう!?』

俺のことを下の名前で呼ぶ女子は、

「どうしたの? …夏菜子」

彼女しかいない。人見知りな自分にしては珍しく、女子では唯一下の名前で呼んでいる。初対面のときから双子のお姉ちゃんみたいな感覚で、トラブルメーカーっぽいけどいつも明るく笑っている。そんな彼女だから、電話の向こうの狼狽ぶりに、条件反射みたいにぞっとした。

『真梨が…退学させられちゃった……』

息が詰まった。

絞りだすように吐き出された言葉を、俺は冷静に…冷静に受け止めようとした。

「…どういうこと?」

『龍我のことがバレて…それで…っ』

声をなくしたように何も言えなくなった俺に、夏菜子は何度もつっかえながら話した。

真梨ちゃんが退学届を渡されたのは2週間前。そして昨日、真梨ちゃんの手で書かれたそれは受理された。彼女はもう、東城高校の生徒ではない。

『あのね、一世…頼みたいことがあるの。このこと、龍我に伝えてくれないかな……。あたし、勇気なくて。どんな顔して話せばいいのか、わかんない……』

夏菜子は涙声で訴えた。

学校側は龍我には何も伝えていないという。そうだろうな、と思った。何も知らせずに、引き離すつもりなんだろうな、と。

泣いている夏菜子をなだめてから電話をきった。願わくは今にも忘れ去りたい事実を、俺はどう伝えればいいんだろう。

"いつか終わりがくる"

そう覚悟していたとしても、別れることは……

「龍我」

楽屋のソファーに座ってくつろいでいる龍我を見たとたん、また息がつっかえそうになった。

泣いちゃダメだ。俺が泣いちゃダメだ。

 

 

 

目を逸らすことは許されなかった。俺は、龍我の表情が変わっていくのを見た。

「…は?」

片頬を上げて俺を見る彼は、…そう、それは笑顔だった。

冗談なんて言わないでよ。縁起でもない嘘つくなよ。

そんなあしらいの言葉は、ついに龍我の口から出ることはなかった。

笑顔はひくつき、唇が震えだし、小動物みたいに俺を見て……

「…龍我」

ヒュウ、と喉が鳴った。

彼は声も出さず、片手の甲で口を押さえた。見開かれた目から、涙が一筋こぼれ落ちた。

 

 

 

廊下のソファーに背中を預けて目を閉じる。いまだ2人は出てこない。

今日これから仕事がないのが救いだった。龍我の感情の収拾がつくまで、俺は待つことにした。

考えることはひとつだった。

どこから漏れたんだ…

誰かがリークした…?

"秘密"を共有していた顔を思い浮かべ…俺は顔を覆った。

わかりすぎるほど…わかってしまった。

『このこと、誰にも言わないで』

言い含めるように話したあの日、小さく頷いた…橘菜摘。

嫌な偶然だった。彼女とは、さっき共演したばかりだ。

事実を確かめに行く足は重かった。これをしていいのかと思った。

"立花なつみ様"と書かれたドアを見つけて立ち止まる。中はがやがやと騒がしい。

『ナッツ、良かったわよ! あのコメント』

『ほんとですか!? やったー、ありがとうございます!』

軽やかにまるく飛び交う女性たちの声が聞こえてきた。皮肉だ。喜びの声は聞こえて、悲しみの声は聞こえないなんて。

ノックしてもかき消されそうだと踏んだ俺は、ノブをガチャンと力強く回した。

「あの、すいません!」

そのとたん静まり返る楽屋。華やかな人たちに囲まれて、立花なつみ…橘菜摘は座っていた。

「あ、金指くん…」

きょとんとした顔で俺を見る。

「ちょっと…話があるので、2人にしてくれませんか」

そう言うと、スタッフさんたちは快く「どうぞどうぞ〜」なんて笑顔を浮かべて次々に楽屋を出ていったけれど、俺にはわかる。背後からの視線。

俺は彼らを知らないけれど、彼らは俺を知っている。人の視線を、何とも言えず気味悪く感じたのは初めてじゃない。変な噂たたないといいけど…いや、今はそんなことより。

「…どうしたの?」

赤いリップグロスがつやつや光る唇が動く。濃い"メイク"はまるで本当の彼女を隠しているようだった。

ナッツスマイル。業界で評判の高いその笑顔が滑稽に見えた。その笑顔で…よく、龍我と共演できたもんだ。

「どうしたの、じゃないよ」

自分の口から出たのは、あまりにも冷たい言葉だった。

「よくそんな笑顔、浮かべてられるよね。…秘密破っといてさ」

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

夜中3時、起き上がった。眠ろうとしても眠れない。なるべく別のことを考えて、目を閉じる。真梨の夢を見る。いつまでも見ていたいのに目が覚める。この繰り返しだ。

喉がカラカラに渇いていた。リビングでポットのお湯を飲むと、泣き疲れてぼんやりとした頭が徐々に覚めていった。

目を閉じるのが怖かった。また、幸せな夢を見てしまうから。ソファーに座り、暗闇を見つめる。カーテンの隙間から射し込む街灯の白い光が寒々しい。

昨日の夕方、ふらふらと家に帰り着いた俺を出迎えたのは弟だった。心配そうな表情を浮かべていた。

『…ごめん、なさい』

校則違反は家族に連絡される。就寝前、事情を知った両親に申し訳なくなり頭を下げた。どんな叱責でも受け止めるつもりだった。

『…よかった』

母親がぽつりと漏らした一言は、意外なものだった。

『あなたが、無事で』

隣に座る父親は、『まぁ…そういうこともあるだろ』と怒っている訳ではなさそうで、それもまた意外だった。

努めて明るく接してくれる両親に余計な心配はかけたくなくて笑顔を保った。しかし夜、1人きりの部屋にいると、心の奥が鉛を飲み込んだように重く感じた。

目を閉じると思い出す、真梨の笑顔……

ダメだ。苦しい。

"無事でよかった"なんて、俺はそんなこと思ってない。

"佐藤龍我"を守る盾のひとつも、大切な人に分けてやれなかった。

「…いたんだ」

静かにドアが開き、弟が顔を出した。

「ごめん、起こした?」

「別に。喉渇いただけ」

部屋に戻ろうとすると、「ねぇ」と呼び止められた。

「しばらくここにいれば? 俺もここにいるから…さ」

「…悪い。ありがとう」

いつの間に涙を流していたのだろう。

弟は黙ったまま、情けない姿で泣き続ける俺の隣にいてくれた。