【瞬 第11話 夢①】
…真梨side……
12月2日。
それは突然の告知だった。
「水瀬さん、ちょっといいかしら?」
図書当番で図書館にいた私は、急遽担任の先生に呼び出されて、席を外すことになった。
「なんですか?」
廊下を歩きながら先生に訊いても、「あぁ…ちょっとね」と曖昧にはぐらかされる。
連れてこられたのは、
「生活指導室…」
プレートの文字が揺れた。
あっという間にぼやけたそれを、拭うことができない。
先生は私を見下ろした。
「思い当たる節があるようね」
その目は、静かな怒りを秘めていた。
押しつぶされそうなほど重苦しい空気が漂うなか、私は先生と向かい合った。
「あなたには驚かされたわ…」
彼女の一言目はそれだった。
「まさかこんなことしてたなんて…最初は信じられなかった。成績優秀だし、非の打ち所がないというのは、水瀬さん、まさにあなたのことだったのに」
それは明らかに、失望の…言葉だった。
この人は、学校は、私に何を期待していたというのか。
「私もね、つらいのよ? あなたみたいな素晴らしい生徒を失うのは」
そんな言葉、偽善にしか聞こえない。
「でも、規則は規則だから」
さらりと出されたのは、予想通りのものだった。
"自主退学書"。
"自主"とは名ばかりで、これは強制力のある、れっきとした退学届だ。
名前を書いて、押印すれば…私は東城高校の生徒ではなくなる。
否が応でも、私が退学させられることは決まっていた。
「自分が何をしてしまったか、きちんと反省しなさい」
反省? 何を反省しろというの?
「酷なことを言うようだけど、校則違反は悪いことなのよ」
悪い? この恋が悪いことだというの?
「自分がどんな立場なのか考えて…答えを出しなさい」
答えなんて、ひとつしかないじゃない。
私に、もはや選択肢は残されていなかった。
「2週間、考える時間を与えます。期末テストを挟むことになるけれど……16日までに、これを提出してください」
そうだ。私はもう、お払い箱なのだ。こんな厄介事は、冬休み前に収束させたいのだろう。
"さっさとこの学校から立ち去れ"
そう言われているような気がした。
「…それから」
先生が口を開く。今度は何……
「退学については、この学校の誰にも話したりしないこと」
「え…?」
「わかるでしょう? …特に、彼の性格なら」
その言葉が、すべてを物語っていた。
私の思考は、驚くほど冷静にまわった。
別れることを切り出せば、龍我くんは間違いなく私に理由を訊く。そこで退学させられると話したら…彼はきっと、どんな手を使ってでも、下された決定を覆しに行くだろう。
そんなことをしたら…彼の評価は地に落ちる。
スキャンダルを恐れる学校は、彼を手放したくないはずだ。けれどもし、彼に目立つ行動があるようなら…"見捨てる"選択肢だってある。
トレイトコースという、芸能科を抱える訳ありの学校だ。週刊誌はじめ様々なメディアの内通者が、校内にいたとしても不思議ではない。だとすれば、噂が広まる前に、その根源である彼を排除する。その可能性は十分ありえる。
そうなれば…彼の努力、今まで積み上げてきたものがすべて崩れてしまう。
今まで私を大切に想ってくれたぶん、どんな行動をとるかはありありと想像できた。
私は……
私は、それを望まない。
龍我くんが"アイドル"を捨ててまで一緒にいようとすることを、私は望まない。私がすべての責任を引き受けて退学すれば丸く収まる。
だから、誰にも言わずにこの学校を立ち去れと。
「…わかりました」
そう言うと、先生は深く長く溜息をついた。
「まったく…相手が悪かったわね……」
机の下で握りしめた拳に、思わず力が入る。
遠回しに彼を罵られた怒りと何もできない自分の情けなさ、その両方で震える手を抑え、強く強く握りしめた。
耐えて、耐えて。
今ここで感情のままに動いたら、私はいよいよ…"水瀬真梨"ではいられなくなってしまう。
未練なんてありません。もう恋なんてしていません。
潤んだ目に気づかれないように、深く頭を下げた。
「…このような行為にはしってしまい、申し訳ありません。当然の処分だと思っています。本当に申し訳ありませんでした」
自分の声が遠く聞こえた。
私は…最後に、本心を隠した。
『真梨』
優しいその声が、
『大好き…』
その言葉が、すべてだった。
すぐ傍で、幸せでいられるなら、それでよかった。
望みすぎ、だったんでしょうか?
机に広げたまっさらな退学届を見つめた。
まだ書くことができないそれ。何度見ても変わらない現実。
こんなもの、破り捨ててしまいたい。
泣き疲れて痛む頭と、ぼんやりと霞む意識。
_ガチャン
玄関の鍵が開く音が響いた。
家族には話さなくちゃ……
私はふらふらと立ち上がった。
今まで隠し続けてきたすべてを…話すために。
「お、お姉ちゃん…?」
妹の前では泣かないと決めていたのに。
「それ…本当?」
頷くのが精一杯。
夏菜子と同じで、"美 少年"のファンである妹。
そのショックは、前例があるから容易に想像できた。
アイドルは夢を売る仕事だと…いつか龍我くんが言っていた。たとえ仮想であっても、ファンにとっては"彼氏"であり"憧れの人"なんだよって。
私を責めていい。
ファンにとって見たくない現実を見せてしまったのは、私だ……
「お姉ちゃん…」
やわらかい羽のように、妹の声が私を呼んだ。
「つらい…よね。つらかった…でしょ? 誰にも言えなくて……」
おそるおそる、顔をあげる。
妹は、泣いていた。
「でも、すごいね……」
泣きながら…微笑んでいた。
「龍我は…人を見る目があるんだね……。それでこそ、あたしが応援してる"美 少年"の龍我だよ……」
ひとつひとつ、言葉を紡ぐ妹。
「あたしの自慢のお姉ちゃんだもん。龍我には、それがわかったんだよ……」
ねぇ、それは本心…?
いつか傷つけるとわかっていて、恋をした。許されない裏切りの恋だった。
「お姉ちゃん、お願いだから…龍我と出会ったこと、後悔なんてしないでね…」
妹は泣きじゃくりながら、私にぎゅっと抱きついた。
「ごめん…ごめんね、沙耶…」
背中に手を回す。
「ありがとう……」
その日、フラワーアレンジの講習会で夜遅く帰ってきたお姉ちゃん。
両親と離れて暮らし始めてから、母親代わりに育ててくれたお姉ちゃんにも、すべてを話した。
お姉ちゃんは黙って聞いていた。
そして、私が話し終えると、口を開いた。
「…あと2週間しかないなら」
そこで言葉を切り、まっすぐに私を見つめた。
「その2週間をどう過ごすべきか…考えてみなさい。龍我くんとの時間、友達との時間を…残りの時間をどう過ごしたいか。自分なりに答えを出して、悔いのないように」
お姉ちゃんは、過去を振り返ることはしなかった。
「…よく頑張ったね、真梨。大丈夫」
ただそっと、私の背中を押してくれた。
残り僅かな時間を、どう過ごすべきか……
一晩中考えた。
龍我くん。金指くん。夏菜子。麗華。みんなのことを。
そして朝…
答えが出た。
何も言わずにあなたのもとを離れなくてはいけないなら…
笑顔でいよう。最後まで。
「真梨! やっはろー!」
読書する私のもとに、ウサギみたいに駆けてくる夏菜子。
気の抜けた挨拶が、私の元気の源だった。
やがてクラスメートが続々と登校し、教室は賑やかになる。
「麗華ー! 来てきて!」
そして集まるいつもの3人。
「ねぇ、昨日那須が出てた番組観た?」
「観たわよ」
「えーっ、うらやま! もう期末1週間前だからってさ、母親が点けてくれなかったんだけど!」
「ペットSPだからキナコちゃんとひたすらイチャイチャしてて…ふふ」
「あー、何それ! 麗華勝手にネタバレしないで! 超気になるから!」
いつもと変わらない…大好きな友達。
3人でたくさん話した。たくさん笑った。
…忘れたくない。
お別れしても、忘れられない…きっと。
12月14日。
私にとって…最後の登校日。
しんと冷えた書庫の空気のなか、
_ガチャ
ドアが開く音に、胸の奥がきゅんと熱くなる。
「あ〜…さみぃ」
手のひらに息を吹きかけて、私を見ると「おはよ」と笑った。
「おはよう、龍我くん」
「ここ寒くない? エアコンないんだっけ」
「手袋してくればよかったのに…」
彼の冷えた手をとった瞬間、その手に優しく引っ張られて、私は抱きしめられていた。
「…湯たんぽ、あるからいいや」
こもった声でそう言って、口元が綻ぶ。
冷気を纏った体から、冬のにおいがした。
最後の日…
会うのは、これが最後……
「ありがとう、龍我くん」
「どうしたの、急に」
「…なんでもない。なんか、言いたくなったの」
なんだそれ、と照れたように彼は笑う。
あぁ…この笑顔が、好き。
泣きそうになるのを堪え、私も笑って応えた。
目に焼きつけておこう。
龍我くんの笑顔。
綺麗に澄んだ瞳も、口角の上がった唇も、照れたらすぐ赤くなる耳も、胸をくすぐるような声も、全部全部、覚えておこう。
…時計の針は、とうとう7時を指した。
「そろそろ行かなくちゃ」
立ち上がってスクバを肩にかける龍我くん。
今すぐにでも引き止めたい衝動に駆られた。
ダメだ、泣くのだけは絶対にダメだ。
最後まで笑顔でいるんだ。
「じゃあまた明日ね。真梨」
「…うん、また…」
明日は、ない……
「…じゃあね、龍我くん……」
背を向けて彼は歩き出す。
私も背を向けて歩き出す。
「…うっ、うぅ……」
手の甲を口に押し当てて、必死に声を飲み込んだ。
振り向かない。もう二度と。
ごめんね。
ごめんね、龍我くん。
何も言えないまま…あなたの前からいなくなること。
きっと悲しませてしまうから。
だから最後に、奇跡を願わせて。
12月16日。
募る気持ちは堰を切って溢れた。
先生から渡された紙を見つめる。
"自主退学書"と書かれたそれにペンをはしらせながら、次々と浮かんでくる思い出に胸が締めつけられる。
初めて出会った図書館。
書庫で過ごした時間。
毎週土曜日の帰り道。
修学旅行の夜のデート。
私の家に泊まった日。
『好きだよ』って何度も言ってくれて…
恩返し…できたかな。
もし叶うなら、あなたとずっと一緒にいたかったよ…
私と出会ってくれて、私を好きになってくれて…本当に、ありがとう。
龍我くん。
私はあなたが…大好きでした。