【瞬 第8話 交錯①】
…真梨side……
ダンス部のパフォーマンスが終わると、シフト交代の時間。私たちは教室に戻り、今度は文化祭のキャスト側にまわる。
廊下を見ると、お客さんがずらりと並んでいた。
「ここ美味いらしいよ」
「あっ俺もC組の奴に聞いた。生徒の手作りだけどプロ並みだってさ」
そんな会話が聞こえてきて、なんだか照れくさい。
「お待たせしました。2名様どうぞ!」
声を張り上げてお客さんを案内しているのは、ウェイトレス担当の夏菜子だ。
「お客さん、途切れなく来てくれているわ。それと…真梨のアップルパイが特に好評みたいね」
隣の空き教室に置かれた簡易冷蔵庫から、今朝大量に作ったメニューを運び出していると、たまたま隣に来た麗華がこっそり耳打ちしてくれた。
「本当?」
「えぇ」
にっこりと口角をあげて微笑む。そして忙しそうに、楽しそうに私に言った。
「真梨、2番テーブルにこれお願い」
「はーい」
トレーを持って、テーブルに向かう。
「お待たせしました。アップルパイとチョコレートケーキと紅茶が2つになります」
お客さんの相手も、初めは緊張したけれど、今はすっかり慣れてしまった。何よりお客さんの笑顔を見るのが楽しい。自分の作ったメニューを「おいしいね」って食べてくれる、その心地良さ。案外、こういう仕事に向いているのかもしれない…なんて。
"pianissimo(ピアニシモ)"ウェイトレスとして働きながらそんなことを思っていると、後ろから突然、ぐい、と引っ張られる感覚があった。
「っ、と……はい、ご注文うかがいます。……えっ」
顔を上げたとたん、黒く澄んだ瞳と目が合って一瞬固まってしまった。
「オススメはなんですかー?」
いくぶん声を潜めながらもおどけて訊く彼は、色素の薄いサングラスとマスクをつけているけれど、間違いない。
…龍我くんと金指くんだ。
「オススメは、…アップルパイです」
とびきりの笑顔で答える。
「じゃあ、それで」
「俺も。あとコーヒーひとつでお願いします。以上で」
「おいっ俺のぶんは!? …あ、同じくコーヒーで」
2人のやり取りに笑ってしまいそうになりながら、
「かしこまりました」
そう言って調理スペースに戻る。
…ふぅぅ、びっくりしたぁ。
シフトの時間は昨日教えていたけれど、まさか本当に来るなんて思ってはおらず…
アップルパイとコーヒーを2つずつ乗せたトレーを運んでいく。
「お待たせしました」
「ありがとう」
あまり長く留まっていると怪しまれそうだから、すぐに離れる。すると、そっとマスクを外して、食べ始める2人。
「…ん、おいしい」
「ほんとだ」
そんな会話が聞こえてきて、顔が綻んだ。
担当したのが私で良かったかも。
夏菜子は入り口でお客さんの案内をしているから気づいていないみたいだし、他のクラスメートも気づいていない…というか、気づいたとしても大騒ぎになることはないだろう。暗黙のルールがあるから。
「……」
まって。入り口?
そのとき、ある予感がして、私は振り向いた。
…夏菜子side……
「話があるの」
真梨から切り出されたのは、文化祭2日目の放課後だった。
カフェだった教室を片付けて、借り物の返却確認など最終チェックをするために下校時間ギリギリまで居残っていたあたしに、唐突にそう言ってきたのだ。
「ん、なに?」
2人しかいない教室、真梨がストンと口にしたのは、
「…佐藤龍我くん、のことなんだけど」
それは、まるで水面に小石が投げ込まれたような、静かな衝撃だった。
真梨の言葉を反芻し、咀嚼したけれど、
「え、…どういうこと?」
やっと口に出たのは、動揺の言葉だった。
「ねぇ…どういう…」
力の抜けた手で真梨の肩に触れると、彼女はまっすぐに見つめ返してきた。
「え…ちょっと待って」
手が震える。その振動が伝わったかのように、真梨の瞳が揺れて、小さな雫がこぼれ落ちる。
「嘘…でしょ、ねぇ」
それでやっと、冗談じゃないことを悟った。もともと冗談なんて言わない人だけど、あまりにも信じがたかった。
投げ込まれた小石が、鉄のおもりになって沈んでいく。
真梨から目を逸らして、あたしはぼうっと前を見つめた。
開いた窓から吹き抜ける秋風は、嵐の前の静けさを物語っているようだった……
違和感があった。
ウェイトレスとして入り口に立ち始めて、しばらく経った頃。
"pianissimo"は好評で、お客さんがずらっと列を作るほどで。
手元のシートにお客さんの人数を書き込みながら、
「何名様ですかー?」
慣れてきた仕事に、すっかり緊張も解けて顔を上げた。
「2人です」
「はい、2名様ですね。4番の席へどうぞ」
シートに"2"と書き込んだとき、ふっ、とペンが止まった。
…え?
カフェに入っていく2人に既視感をおぼえて、再び顔をあげる。
…まさか。
一瞬だけ合わせた顔は、間違いなくサングラスとマスクをしていた……
「あのー…」
次に待っていたお客さんの怪訝そうな声に、我に返る。
「あ、すみません。…何名様ですか?」
いかんいかん。
仕事に戻りながら、でもどうにもさっきの2人が気になって、たまたま近くに来た麗華に「ねぇ」と声をかけた。
「ちょっと代わって。ここ」
「え? でも私、接客とかしたことな…」
戸惑う麗華に、一番先頭にいたお客さんの男子たちが、
「麗華スマイルくださいよぉ〜!」
「相乗効果で来客アップするかもな!」
なんて、ある意味助け舟を出してくれたもんだから、無理矢理かもしれないけどすんなりポジションを代わった。
ちらりと4番テーブルを見たとたん、胸がドクンと鳴った。
変装をしていても、見覚えのある横顔。メニューを見ながら話している2人の男子生徒。
入所当時からファンの私には、すぐにわかった。
龍我とピッピ。
かなりゅ。
嘘…ほんとに来た…!!
はやる気持ちを抑え、カフェの隅に立って窺い見る。
やっぱり、間違いない。
どうしよう。話しかけたい。話しかけてみようか。
そうしたいのに、足が固まったように動けない。龍我を目の前にして、あたしは臆病だった。
…臆病だった。
話しかけていいはず、ない。
突発的に行動して、迷惑をかけるのだけは…それだけは、絶対に嫌だ。
この距離。
たった数メートルの間に流れている空気が、"東城の壁"を作っていた。冷めた思いが頭を貫いたとき、龍我がそっと手を伸ばした。
それはほんの短い出来事だった。
彼が掴んだのは、ウェイトレスの白い袖…
振り向いたのは、真梨だった。
「……!」
あたしは、目の前で繰り広げられるドラマのような光景をただ眺めていた。目を逸らすことはできなかった。
注文を受け、一旦下がった真梨はしばらくして戻ってきた。トレーを龍我の席に運ぶと、ぺこりと頭を下げて、すぐにテーブルを離れた。
この瞬間まで、あたしは視聴者だった。
"壁"の向こう側から戻ってきた真梨は、あたしから少し離れたカフェの隅に立った。それは一見、他のお客さんに呼ばれるのを待っているかのように見えた。
しかし、その視線の先は一点を見つめていた。その口元は微笑んでいた。
もしかして、気づいているの?
真梨が見つめる2人。
あたしが見つめる真梨と2人。
奇妙な三角形が、できあがっていた。
そのとき、真梨がふとこっちを振り向いた。
目が合ったとたん、大きな瞳が慌てたように瞬いて、すぐに逸らされた。
え…?
心のどこかに明らかな違和感を感じながら、文化祭の2日間はとぶように過ぎていった。
家に帰り着くと、あたしは制服のままベッドにダイブした。
枕に顔を埋めると、秋風で冷えた頭に血が回りはじめる。泣いた後のような疲れが重くのしかかっていた。
ふいにむず痒くなった鼻を啜る。
なに、泣いてんのよ……
枕にさらに顔を押しつけて、涙が零れ落ちないように、閉じた瞼の裏の闇を見つめた。
…なんで。
『付き合ってるの…私』
かすれ声しか出なかった。
綺麗な白い頬に涙が流れていた。
いつも一緒にいたのに、真梨の泣き顔を知らなかった。
泣かせてるのは、私…?
『ごめん…夏菜子』
最後に真梨はそう言った。
黙っていてごめん。裏切ってごめんね。
何の謝罪だろう。
謝る必要なんてこれっぽっちもないのに、それは思わず出た言葉のようだった。
あのときの真梨の表情を、あたしは忘れない。その痛みは、じわじわと効いてくる。
あたしは、"本気愛"を自称するファンが苦手だ。好きなのはいいことだけど、手の届かない人を"本気で"好きになれるわけない。そう思っているから。
理想と現実に線引きをしなくちゃいけない。例えば麗華だって、ピッピ担だけどアリーという彼氏がいるように。ちゃんと区別して見なければならない。
"好き"の勘違いはしない。その潔さも必要だって、それでこそファンなんだって、自分に言い聞かせてきた。
あたしは龍我の何ものでもない。ただのファンのうちのひとりだ。そんなことわかってるはずなのに。
『夏菜ー、ご飯よー』
階下からお母さんの声がして、あたしは顔を上げた。
真っ先に飛び込んできたのは、壁に貼ってあるアイランドストアのポスター。
キラキラ輝くアイドルの彼を、今はまっすぐに見れなかった。
何ものでもないし、何ものにもならない。
それがアイドルだと思ってた。
でも、そんなのはファンが造り上げた幻想にすぎなかったんだ。こうあってほしいという理想像を突きつけて、アイドル"佐藤龍我"は造られたのだ。
その仮面を剥がせば…彼だってひとりの人間。
何の確信があって、彼が恋愛をしないと言い切れるんだろう。
誰も知らない場所で、ただひとりだけに見せている顔がある。
いつか、ただひとりの女の子が彼の隣に立つ日が来る。
…ただひとり。
それは親友だった。
あたしの大切な、親友だった。