【瞬 第8話 交錯②】
…夏菜子side……
バカみたいだ。
あたしは、目の前に積まれた書類を呆然と見つめていた。
各クラスの学級委員が集まった放課後の生徒会室。文化祭での自分のクラスの決算をまとめて、会長に提出してから帰る。
計算だけの簡単な作業だ。すぐに終わると思ったのに、書類が目の前に置かれたとたん、頭が殴られたような衝撃を思い出してしまった。
文化祭。"pianissimo"。真梨。龍我。『付き合ってるの…私』。
それらの場面がコマ割りのように浮かんでは消え、浮かんでは消える。
プリントに羅列された金額がぶれて、ただの数字に変わった。
みんなが電卓をたたく音が、不快なノイズに聞こえた。
「…うっ……」
体は嘘をつかない。
あたしはそっと立ち上がった。
「…すみません。ちょっと気分が悪いので、保健室行ってきます」
ガンガンと頭が鳴っていた。
逃げるように生徒会室を飛び出して、保健室に駆け込んだ。
しばらく横になり、痛みがひいた後ようやく戻った生徒会室には、誰もいなくなっていた。長机の上にあったメモに"決算書は明日までに提出してください、お大事に"と会長の闊達な字で書かれていた。
…あたしは、ひとり居残ることになった。
こんな日に、克也が学校を休んだのが寂しかった。どうやら文化祭後の打ち上げではっちゃけすぎて体調を崩したらしい。小学生かと突っ込みたくなるような欠席理由に呆れる。
「はぁ…」
溜息が、もれる。
それほどまでに、あの件について衝撃を受けていたとは。
バカみたいだ…あたし。
_ガラガラ
ドアが開く音に振り向くと、意外な人物がそこに立っていた。
「…志田ちゃん」
あたしは思わず、その小柄な女子生徒に呼びかける。
一般コースとトレイトコースが唯一交わるのがここ、生徒会。彼女は、トレイトコース2年の志田美久ちゃん。
「カナやん、どうしたの? ひとりで…あ、もしかして文化祭の?」
頷くと、志田ちゃんは腕いっぱいに抱えた書類をドサッと机に置いて、マシュマロみたいな笑顔を浮かべた。
「そっかぁ。お疲れー。私はこれから雑用だよー」
初めて会った頃、こんなに笑う子だとは思っていなかった。
今年の4月、生徒会役員の初顔合わせの集まりで、あたしは目を奪われた。すぐ目の前に、志田美久と神木彗という俳優コンビが座っていたのだから。2人とも、既にブレイク真っ只中で、知らない人はいないというほど…まさか生徒会に入るなんて、思いもよらず。
そんな2人だから注目されるのは当たり前で、自己紹介が終わった後もなんとなく話しかけづらい雰囲気があった。けれどあたしは、自己紹介中もずっと、ある可能性を考えてウズウズしていた。それで、勇気を出して話しかけてみたのだ。その"目的"のために。
『あの…志田さん』
生徒会室を出て行こうとした背中に呼びかけると、彼女は振り返った。
『あ、佐伯さん…だよね?』
くるんとした目が合った瞬間、頭で思い描いていた"計算"が消えた。
名前を覚えていてくれたことに感動しながら、あたしは"目的"のために行動した自分を恥じたのだった。
龍我とピッピが東城高校の生徒だと知ったのは、入学してすぐの頃だった。
既にファンだったあたしは、飛び上がるほど嬉しかった。同い年の彼らだったけど、芸能人だから高校は行かないかもなんて思っていたから、同じ高校に通っているというだけでもテンションは上がりまくり。
高校受験で志望校を選ぶとき、トレイトコースのある東城高校を選んだのは、そこに賭けてみようという気持ちもないわけではなかった。ある意味不純とすら思える理由だけど、同じ高校に行ってあわよくば……そんな子供じみた甘っちょろい夢を、あたしは生徒会役員になることで実現に近づけようとした。
けれど、あたしは負けた。
佐藤龍我を聞かずして、志田美久の視線に負けた。その隣で、同じく振り向いた神木彗の切れ長の目にも、同じものを感じた。
おそらく自覚していないだろうけど、2人とも、とても印象的な目線をしていた。すぐに見透かされてしまいそうな力強い目。やわらかい笑顔を浮かべていても、根底に凛とした芯の強さが見えた。
やはり幼い頃から特殊な世界にいると、この視線を持つようになるのだろうか。演じる者として培った経験が、貫禄が、瞳に表れるのだろうか。
いずれにしろ、今のあたしが、志田ちゃんたちと仲良くすることで龍我と繋がりを持ちたいという邪心を捨てているのは事実だ。身勝手な感情を表に出すなんて、なんて浅はかな行動だろう。真実を知った今ならなおさら……
「…カナやん」
ふと、我に返る。高2にしてはずいぶん背の低い志田ちゃんに下から覗き込まれると、瞳の強さも相まって思わず逸らしてしまう。
「手伝おうか?」
「え、あ、あぁ…それはありがたい、かも…」
「ほんと? やったー。じゃあ、半分だけやらせてもらうね」
彼女は嬉々として決算書類の上半分を取り上げた。雑用やら何やらもあるのに、他クラスの仕事をやっていていいのだろうか。手伝ってもらっているあたしが言うのもなんだけど。
しかしながら、その理由は、次の言葉で判明した。
「私、決算書まとめてみたかったんだ。ほら、少しは学級委員らしいことしたいなって」
電卓をカタカタ叩きながら、楽しそうに彼女は言う。
トレイトコースではクラスの出し物がないぶん、決算書はまとめなくていい。それをどう思うかは人それぞれだけど、彼女は間違いなく"学級委員として"仕事をしたいという人だった。
「なんかほんと…ありがと。忙しいのに」
「うぅん。むしろ、普段できないことだから逆に楽しいよ。これができたのは、カナやんのお陰」
この瞬間、あたしたちの間に"東城の壁"はない。
「あのさ…」
「ん?」
「志田ちゃんは、どうして生徒会に入ろうと思ったの?」
実はずっと気になっていた。子役から有名になって、仕事に追われる日々のなかで、学校でも人をまとめる立場に就いている。
「…やってみたかった、ってだけだよ」
彼女はさらっと言った。
「私さ、芸能人だからってやりたいことまで諦めたくないんだ。特殊な世界だからどうしても、普通の感覚が麻痺しちゃうことってあるんだよね。それが嫌なの」
それは強い意志だった。
「でもね…ほんとはもっと、交流したいと思ってる」
その意志の合間から、ぽろっと本音がもれる。
あたしはそこに、"答え"を見た気がした。
彼女は普通の女の子だった。どこにでもいる女の子だった。
…龍我。
きっと彼だって、そう。
普通の、どこにでもいる男の子なんだ。
「ときどき、反抗したくなるよ…なんちゃって」
彼女はテヘヘと笑ったけど、きっと本心なんだろう。
心が凪のように鎮まっていくのを感じた。
"本気愛"。
認めていなかっただけで、きっとあたしはそうだったんだ。
理想と現実。その境界線がわからないのは、あたしだった。ぼやけた線を、まっすぐだと信じていただけだ。
文化祭が終わってから、真梨と接するたびに妙に気を遣ってしまう。
届きそうで届かない、ゆらゆらとうごめくような存在。彼がどの世界にいるのか、そればかり考えていた数日間。
でも、あたしは今、思う。
彼のいる場所が、彼の世界。
当たり前のことなのに、いつの間にか錯覚していただけなんだって。
「…なんかあったの?」
「ん、うぅん、なんでもないよ」
開いた窓から涼しい秋風が吹き抜ける。真梨に打ち明けられた、あのときみたいに。
それは、あたしの胸をそっと冷やした。
「カナやん……?」
差し出された手には、ハンカチ。
やだ、あたし。
顔に押し当てると、温かさがじわりと広がった。
志田ちゃんは、それ以上何も訊かなかった。ただ、あたしの背中をさすって、日が沈むまで傍にいてくれた。
…龍我side……
真梨から電話があったのは、文化祭が終わってちょうど1週間が経った日曜日だった。
『龍我くん…会いたい』
真梨にしては珍しくそんな言葉を言うもんだから、切なくキュンとして、翌朝急いで書庫へ行った。
_ガラガラ
書庫のドアを開けると、真梨は既に来ていた。イスに座って俺を見つめる目が、うっすら赤くなっていた。
「真梨……?」
彼女の瞳から、涙が一筋流れていく。
その唇から嗚咽がもれて、彼女は俺にしがみついた。
「私、傷つけちゃった…友達」
「…友達?」
「親友がね、龍我くんの…」
言いかけた唇を、唇で塞いだ。
真梨の言葉の続きがわかってしまったから。
「…ごめん、それ以上言わないで?」
俺は自分勝手だった。
真梨と日々を重ねることが、誰かを傷つけていること。誰かを苦しめていること。
忘れたい。今は何も考えさせないでよ。
いつか迫り来る終わりを、受け止める準備…
そんなの、まだできない。どうしてもできない。
真梨を想えば想うほど、抑えきれない感情に気づく。どんどん君を好きになって、どんどん君に溺れていって、どんどん…手放せなくなっていく。
ギギ、とイスが動いた。
唇に押し続けられる熱に耐えきれなくなったかのように腰を浮かせた彼女を、その瞬間抱え上げて床に押し倒した。
「真梨……っ」
血が上った頭は必死に彼女を求めていた。乱れた呼吸を整える間もなく、その唇に何度も吸いついた。
本当に大事なことを、見ないふりして…
それは苦いキスだった。
今までで一番…罪悪感の積もった、キスだった。