【瞬 第7話 告白①】
…真梨side……
私の朝は変わらない。
6時半の開門と同時に校門をくぐり、靴を履き替える。龍我くんと待ち合わせをしていたら書庫に行き、そうでなければまっすぐ教室へ行く。
今日は前者のほうで、もう何度秘密の時間を過ごしたかしれない図書館書庫に向かった。
_ガラガラ
「おはよう、」
ドアを開けたとたん、
「……」
思考が止まった。
本棚にもたれて携帯を弄っていたのは、龍我くん…ではない。
"彼女"は、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
そのとき、黒目がちの大きな瞳に私は既視感を覚えた。
形の良い唇が動く。
「あなたが、水瀬真梨さん?」
それは、およそ"彼女"の口から出るなんて信じられない問いかけだった。
呆然と立ち尽くす私を見て、それが答えだと思ったのだろう、"彼女"は澄んだ声で言った。
「はじめまして。…立花なつみです」
立花さんは携帯をしまうと、そっと椅子を引いて腰掛けた。いつも龍我くんと座る席…妙な気持ちになりながら、私も腰掛ける。椅子を引く、カタン、という音がやけに大きく聞こえた。
「立花さんって…あの、立花さん?」
やっと口に出た言葉は、"彼女"と偶然出くわしたら大抵の人がするであろう質問だった。
「"あの"っていうのが具体的にどれを指しているのかは知らないけど、…そうね、"あの"立花なつみよ」
また彼女も、この質問には慣れっこらしく、すらすらと答えた。
「もっとも、立花なつみは芸名だけど。正しくは、1文字の"橘"に菜っぱを摘むと書いて"菜摘"。まぁ、字面が変わるだけね」
彼女の活躍なら知っている。専属モデルを務めるティーン雑誌はよく買っているし、つい先日まで主演ドラマを観ていた。
私は呆然と彼女を見つめた。
ここは…この高校は、隣り合わせではあれど決して交わらない2つの世界が存在している。
彼女がどうしてこの場所に…書庫にいるのか、わからなかった。
いや、思考が止まっていた。許された機能は、ただこの事実を目に映すことだけ…
やっと思考が回ったのは、流れる空気に動きがあったからだった。
_ガラガラ
ドアを開けて入ってきたのは、
「…っ」
龍我くんだった。
私たちの姿を認めて一瞬静止し、
「…橘」
その口から、うめくような声が漏れた。
彼はそのまま、何も言葉を発さなかった。
彼女もまた、静かに彼を見つめていた。
私は驚くほど冷静だった。この状況が危機だと、そう思い知るのに時間がかかった。
ただ、ゆっくりと速まっていく胸の鼓動だけを感じていた……物語の終わりへの、カウントダウンのようなその音を。
…金指side……
…遅かった。
書庫のドアの前に、俺は座り込んだ。
橘さんからLINEが来たのは、今朝早くのことだった。
『私やっぱり隠しきれない』
その一文が目に飛び込んだ瞬間、俺は家を飛び出した。
我が家と高校の距離の遠さを、これほど呪ったことはない。朝のなまった体に鞭打ち、並外れた運動神経を味方につけても、高校に着いたのは6時45分。
橘さんのタイミングは絶妙だった。どんな偶然か、翌日だったのだ。"水瀬真梨"という名前を出して龍我を問いただし、全てを知った翌日。それが、今日だった。
『…金指、ごめん』
昨日、龍我の第一声はそれだった。
…黙っててごめん。裏切ってごめん。
様々な意味を含んだ"ごめん"だった。
その後語られた内容は、俺の想像通りだったから衝撃的ではなかった。心構えができていたぶん、その事実をあっさりと受け入れられた。
『どうしよ、俺…』
戸惑う龍我に、俺は仕事仲間ではなく、親友として答えた。
『好きになっちゃったなら、もう仕方ないことなんじゃないの?』
不思議と責める気持ちは湧かなかった。
恋愛に是非なんてない。橘さんに話をされてから考え続け、辿り着いた結論はそれだった。
『…彼女のことを、絶対守れるって約束するなら』
そう言うと、龍我はしっかりと頷いた。
『…わかった。金指、ありがとう』
約束とは、脆いものだ。
慌てて高校へ行き、靴箱で龍我と橘さんが既に来ていると知ったとき、昨日の約束が破られたことを…第三者によって、いとも簡単に破られてしまったことを、俺は悟った。
書庫のドアに耳をつけると、低い話し声が聞こえた。龍我と水瀬さんと橘さん。3人は間違いなくここにいる。
今すぐ中に入りたい気持ちに駆られたけれど、今は橘さんが事実確認をしている。俺が来たら、話を余計ややこしくするだけだろう。
開けられないドアの手前、これから先どうするか、俺はそれだけをひたすら考えた。
…龍我side……
「2人とも、ここに来ると思ってたわ」
重い空気を破ったのは、橘の声だった。
彼女は立ち上がり、本棚に寄りかかった。腕を組んで、俺と真梨を眺めている。
「どういうことだよ…?」
「そう訊きたいのは私なんだけど」
がっつりと、目が合った。気の強い視線に負けないように、睨み返す。
「佐藤くん」
彼女は静かに息を吐いた。
「自分の仕事、忘れたの?」
それは一見、呆れたような口調だった。けれど俺はその言葉に、はっきりとした怒りが見え隠れしているのを感じた。
「…あなたも、どういうつもり?」
彼女は真梨に目を向けた。2人の瞳が合う。
「私、は…」
真梨の瞳が揺れた。その動揺を手玉に取るかのように、橘は真梨の耳に口を寄せ、形の良い唇をそっと開いた。
「…所詮、顔目的なんでしょ」
「ふざけんなよ!」
思わず間に入ってその胸ぐらを掴んだ。
橘の逸らした目が、ゆっくりと戻って俺を捉える。激情をたぎらせて睨みつけながら、彼女は俺の手を振り払った。
「…もういい」
_ガラガラッ
凄まじい音をたて開かれたドアから、橘は走り去っていった。
捨て台詞かよ……
ドアを見つめると、開いた隙間から見知った人影が覗いた。
「…金指」
もう何が起きても驚かなかった。
なんでここにいるのかも訊かなかった。
金指は静かな声で「…慰めとくから」と言ってドアを閉めた。
俺は真梨に目を向けた。
小動物のように怯えた目のまま、彼女はドアを見ていた。
「真梨…」
両肩を抱いて顔を覗き込むと、真梨の瞳から涙が溢れた。
「龍我くん、ごめん…ごめんなさい」
その言葉が、胸を突いた。
ぎゅっと抱きしめて、背中をさすった。
「うぅん、いいよ…もう何も言わなくて」
なんで真梨が傷つくんだろう。何も悪いことはしていないのに、なんで。
_キーンコーンカーンコーン
無情にも7時のチャイムが鳴った。これ以上ここにいたら、図書館に他の生徒が来てしまう。
真梨はそっと体を離して、精一杯の笑顔を見せた。
「…ありがとう」
もっと抱きしめていたかった。
君が泣きやむまで、抱きしめていたかった…
…橘side……
廊下を走る。
あのときみたいに、地面がぼやけていく。初めて書庫で佐藤くんたちを見たときみたいに。
『…まり』
愛しくてたまらないというように呼ぶ声。脳内から消えないその名前は、定期テストのたびに1位として廊下に貼り出される名前と一致した。
"水瀬真梨"。
実はどこかで期待していた。
あの2人が、お互いに離れていってくれることを。
けれど、そんなことがあるわけはなく…
再び2人を同じ視界に収めたら、感情は抑えられなくなってしまった。
なんてことを言ってしまったんだろう…
『所詮、顔目的』
そう吐き捨てたときの、水瀬さんの顔が忘れられない。
大きく見開いて、私を見つめていた目。白い顔と青ざめた唇。
ショックを受けると、人は声さえ出なくなるんだと…実感した。
本当は、あんなこと言うつもりじゃなかったのに。
手で覆った口から嗚咽が漏れる。今更後悔しても遅い。
2人を傷つけた。ひどい言葉で、嫉妬心をぶつけてしまった。
「…橘さん!」
後ろから、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。涙を拭いて、私は逃げるように走った。
…彼に追いつかれるなら、校舎裏がよかった。
「橘さん! 待って!」
肩に手が置かれる。振り向くと、やっぱり金指くんだった。
私は木の幹に手をついて、息を喘がせた。泣いたのと走ったのとで息が苦しい。それでもなんとか声を絞り出した。
「…どうしよ…どうしよう私…」
顔を覆って座り込んだ私に、金指くんは単刀直入に言った。
「橘さんは、龍我のことが好きなんだね」
すっかり見抜かれている。
そりゃそうだよね…付き合っている2人の前で、声を荒げてしまったんだから。
金指くんは首を振った。
「実はだいぶ前からなんとなくわかってた」
「え、…いつから?」
「高1のとき…橘さんがひどいバッシングを受けてたときから」
そんな前から知ってたんだ…私の気持ちを。隠していたつもりだったのに。
「しのぶれど、色に出でにけりわが恋は、ものや思ふと、人の問ふまで、って言うでしょ?」
古文の好きな金指くんらしい例えだった。
「わかるんだよ、2年も一緒にいると。龍我ならなおさらだね。知り合って4年近くになるし。だから、龍我が考えてることも、橘さんの気持ちもわかる」
わかった気にならないでよ。
そんな言葉は、金指くんの前では不思議と出なかった。なんでもお見通しな気がしたから。
「橘さん」
彼は囁くように言った。
「ありがとう。龍我を好きになってくれて」