【瞬 第6話 疑念②】
…龍我side……
どこから崩れたのだろう。
どこで知られたのだろう。
あの脆く、密かな関係は。
今も俺はその瞬間を知らない。
知りたくもないし、聞いたこともない。
それが"彼"の…金指一世なりの優しさだと思ったから。
その日、宿題で出された世界史のレポートを書くため、金指と俺は図書館に来ていた。
それは突然のことだった。
資料となる本を探しているとき、彼は呟くように言ったのだ。
「龍我。今、付き合ってる人っている?」
…金指side……
『佐藤くん、女の子と付き合ってるみたい』
同じトレイトコースの橘菜摘に呼び出されたのは、2学期が始まって1週間経った頃だった。
まだ蒸し暑い校舎裏で告げられた衝撃の事実に、俺は目を丸くした。
『どういうこと? 相手は?』
『それはわからない。けど、プレゼントあげて、楽しそうに話してて…』
それだけならまだ良かったかもしれない。けれど、彼女は一瞬ためらい、再び口を開いた。
『それに…キスしてた』
その言葉が脳天を直撃した。
ただならぬ関係になっている。
直感で、ヤバい、と思った。
『…このこと、誰にも言わないで』
俺は念を押した。彼女は何度も頷いた。
橘さんのことをまるっきり信じたわけではない。彼女も女優だし、演技がうまいからだ。
ただ、もし嘘だとしても、とりあえず龍我には確認しないといけない。
嘘であってほしかった。
早く安心したかった。
そして、直球な…今思えば、直球すぎる質問を投げかけた。
「龍我。今、付き合ってる人っている?」
「はっ!?」
唐突な質問に、龍我は心底驚いたようだ。目を瞬かせ、
「いないよ。いるわけないじゃん」
「そっか。なら、いいよ」
本に目を戻した俺の顔を、龍我は不思議そうに覗き込んだ。
「なんでそんなこと訊くんだよ? ありもしない噂たってんの?」
「違うよ。ただ気になっただけ」
誰とも付き合っていない。それならいいのだ。"アイドル"でいるのだから。
「…なんか、気になる」
ボソッと、声が聞こえた。
「影で噂してる奴がいるなら、遠慮しないで俺に言ってよ。知らないほうが気持ち悪いから」
「ん? …あぁ、わかった」
頷くと、龍我はお目当ての本を見つけたらしく、「お先にレポートまとめてるわー」と席に戻っていってしまった。
その背中を見つめながら、さっきの龍我の言葉に、微妙な違和感を覚えていた。
今までの龍我は、そういう類いのことについて訊かれても、ばっさり否定するだけで、それ以上は気にしていなかったと思う。少なくとも、さっきみたいに『噂があるなら言ってよ』なんて言わないはずだった。
なぜ……?
そういえば、と思い返す。ここ最近の龍我の変化。それは、俺の目にいくつも見てとれた。
妙にぼんやりと窓の外を眺めていたり、一度呼びかけただけでは反応しなくなったり。それから、よく携帯を弄るようになった。
"気にしすぎ"の一言で片付けられるなら…橘さんの話がなかったなら…、俺はあんなことを訊かない。そして龍我だって、あんな答え方はしない。
"なぜ"が"まさか"に変わる。
本当に、付き合っている人がいる…?
俺が本を選んで席に戻ると、龍我は、
「何について調べんのー?」
いつもみたいな底抜けに明るい調子で訊いてきた。
「アヘン戦争について」
上の空でそう答える。
本を読みながら、俺は真正面に座る龍我を盗み見た。
ページをめくる手がふと止まる。本の一箇所に目を落としたまま、彼は動いていなかった。
…わかりやすすぎんだよ、龍我。
胸のなかで生まれた疑念が、確信に変わっていくのを、俺は感じていた。
…橘side……
"放課後 校舎裏 金指"
漢字が羅列されたメモを握りしめる。靴箱に入っていたそれは、ノートの切れ端に殴り書きしたようだった。
ローファーを履き、急いで校舎裏に行くと、大きな石に腰掛けて宙を見つめる姿があった。
「金指くん」
「…結論から言うと」
金指くんは私に目を向けないまま、淡々と告げた。
「龍我は付き合ってないよ」
「え……」
その答えに、私は焦った。
「で、でも、あのとき確かに」
「橘さんが見たのは、」
彼は私を見て、僅かに口角を上げた。
「龍我じゃない」
さっきまで金指くんが腰掛けていた場所に、私は膝を抱えて座り込んだ。
怖かっただけなんだ、きっと。
書庫のドア越しに聞こえた声が、あのときみたいに優しい声だったから。
高1のとき、初出演した映画で酷いバッシングを受けた。張り切って挑んだ役だったのに、"主演の子がかすれる"、"邪魔"などと散々に言われて、まだ芸能界デビューしたてだった私は、耐えられなくて毎日泣いていた。クラスのみんなが私を慰めてくれたけど、一番心に響いたのが、佐藤くんの言葉だった。
『俺知ってるよ、休み時間とか必死に台本読んでセリフ練習してたの。橘はさ、一番がんばってるじゃん』
そして明るく笑いながら続けた。
『必ず誰かが見てくれる。いつかいいことあるって』
私より2年芸能歴の長い彼は、そのぶん私より大人だった。
他の誰よりも勇気づけられた言葉に…彼に、私はいつの間にか、恋に落ちていたのだ。
でも、いつか図書館で聞いた一言に、私はハッと目が覚めた。
『用がないなら話しかけないでくれない?』
冷たい声。そのとき、私の恋は一方的なものだと思い知った。いつもファンの女の子たちに囲まれている彼は、私のことなんて何とも思っていない。たとえ同じ業界の人間だとしても、どんなに近くにいても。
私はそれでも、彼が好きだった。密かに想い続けていた。だから…
『可愛い。ほんと。大好き』
教室では滅多に聞かない甘い声に、立ち止まってしまったのだ。
こんな時間に、こんな場所で、ドラマの台本でも読んでいるのかな。
一瞬でそう思ってしまった私は、もしかしたら現実を認めたくなかっただけかもしれない。
『佐藤く…』
呼びかけようとしたとき、被せるように、『可愛い!』
女の子の声が響いた。心臓がドクンと鳴った。
細い隙間からそっと中を覗くと、こちらに背を向けて立っている佐藤くんと、その向こうに、見知らぬ女の子がいた。
誰…?
セミロングの彼女の表情は、伏せていてよく見えない。その子は、手に何かを持っていた。
『…まり』
佐藤くんの優しい呼びかけに、彼女はそっと顔をあげる。大きな目が印象的な女の子だ。
それはまるで、映画かドラマのワンシーンのように、見つめ合う2人は、私の前で唇を重ねた……
胸を覆っている苦しさに気づいたとき、私はやっと我に返った。そして、事の一部始終を凝視してしまったことを後悔した。
逃げるように立ち去りながら、さっきの景色がよみがえる。
目を閉じて身を委ねていた、彼女の姿。佐藤くんにとって、"特別な存在"であることはすぐにわかった。そして、私なんかより遥かにお似合いに見えた。
あんなの、見たくなかった。
あんなの、佐藤くんじゃない。
下を向いた目頭が熱くなり、地面がぼやけた。
なんで……
胸にせりあがる苦しい感情。
嫉妬なんて、私らしくもない…
それから1週間、幾度となく考えた。この事実を1人で抱え込んで処理できるほど、私は大人じゃなかった。
金指くんに、話してみようか。
放課後に呼び出すと、彼はあっさりやってきた。佐藤くんと違い、教室外の会話でも抵抗はないようだった。
私は全てを話した。表面上、佐藤くんの今後を心配しているふうを装ったけれど、勘のいい彼は気づいたかもしれない。私はただ、残酷な感情で2人を引き離したかっただけなのだ。
それが、失恋した私の、せめてもの反抗だった。
それなのに。
勇気を出して、言ったのに。
『橘さんが見たのは、龍我じゃない』
納得のいく答えは、得られなかった。
『あれは龍我じゃないんだ』
意味がわからない。
だって、私が見たのは紛れもなく佐藤くんで。
『じゃあ、俺は帰るから』
『ま、待って』
金指くんは呼び止められるのをわかっていたかのように、足を止めた。
そしてチラッと振り向いて…
『ごめんね、橘さん』
逃げるように、走っていってしまった。
あぁ…そうか。
そのとき、彼の真意がわかった。
金指くんは遠回しに"隠し続けろ"と言ったんだって。
真実を知った金指くんの答えは、佐藤龍我の保身だった。
もう、どうしようもできない。
"彼のために"
私は、真実を隠すことを決めた。
…龍我side……
暗い夜空を、ひとり見上げていた。
幾千にも瞬く星。
それらに明るさがあるように、守るべきものにも大きさがある。
君を守れるほど、強くなれればよかった。
一番大切なものなんて、本当は決められるはずがないのに。