ピの図書館

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【瞬 第9話 刹那③】

…真梨side……

 

 

 

11月。

冷たい風が頬をさし、私は首をすくめた。

そろそろマフラーデビューかななんて思いながら、澄み切った空を見上げた。

寒いけれど心地よい。目の覚めるような青空だった。

午前6時半、書庫。

「おはよう、龍我くん」

イスに座って、彼はいつもみたいに笑顔で迎えてくれた。

幾度、この場所で待ち合わせただろう。

それは最後の季節だった。

"いつも通り"を繰り返しながら、最後の日は、ある日突然訪れたのだ。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

"いつか終わる"ということに、明確な不安感もないまま過ごすというのは、さすがに無理なものだろう。

冬が深まるにつれて、俺は何かに追われているような焦燥を感じていた。それを、金指はすぐに見抜いた。

「まぁ、そうだろうね」

明らかに落ち着きがない俺に、彼は言った。

「いや、別に決心が揺らいでるってわけじゃないんだけどね…なんか、離れたくないっていうか……」

「誰だってそう思うよ」

英単語帳に目を落とす金指。"fragile"の文字が見える。もろい、壊れやすい。人間の心は、思いのほかそうなのだ。

「…したいことをするんだよ」

ボソッと金指は呟いた。

「え?」

「思い出、つくらなくていいの?」

 

 

 

俺は今だに考える。

苦しみを伴う思い出ならば、つくらないほうが良かったのだろうか…と。

あの夜の出来事が、彼女を泣かせてしまう原因だったとしたら、それは正しかったのだろうかと。

あの日、君をさらって…2人だけの世界に行きたかった。

誰にも邪魔されない場所に行きたかった。

君は泣いていた。

降りしきる雨に紛れ込ませるように、もう何度流させたかしれない涙を流していた。

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

「…あ、雨」

最終下校をとっくに過ぎた昇降口で、私は暗い空を見上げた。

「マジで? 俺、傘持ってきてないんだけど」

ローファーを履きながら、龍我くんも空を見上げる。

私は無言で折りたたみ傘を広げて、差し出した。

「…入れてくれんの?」

にやっと笑って、龍我くんが傘のなかに滑り込む。自分から差し出したくせに、距離が近くて緊張する。

「俺が持つよ。身長差があるから差しづらいでしょ」

「うん、ありがと」

ポツポツと音をたてていた雨は、あっという間に本降りになった。

「うぉ、冷たっ」

「わ、ごめん」

私の傘は相合傘をするには小さくて、雨は容赦なく肩を濡らしていく。

「…マジか」

いつも別れるT字路にさしかかって、私たちは顔を見合わせた。

「どう…しよ」

雨は止みそうにない。

「あの…龍我くん」

そのとき私が発した言葉を、彼はどう思いながら聞いて、頷いてくれたんだろう。

 

 

 

「ただいま…」

返事のない、静かな家。

「お邪魔します…」

龍我くんを、あげてしまった。

…奇遇だった。

お姉ちゃんは出張、沙耶は昨日から修学旅行。今日は2人とも帰ってこないから…と言うと、彼は降りしきる雨に目を細めながら、頷いたのだった。

「…これ、貸すから。女物だし、ちょっと小さいかもしれないけど」

Tシャツとフリーサイズのスウェットを差し出す。

「…ごめん、ありがとう」

龍我くんは素直に受け取った。

「お風呂沸かしてくるね」

なんだかよそよそしくて、私は早々にその場を離れた。背中に彼の視線を痛いほど感じながら。

心臓が、警鐘を鳴らしていた。

 

 

 

「さっき、家族に電話した」

シャワーを浴びた後、龍我くんの一言に、私は念のため訊いた。

「その…大丈夫?」

自分から誘っておいてのこのセリフに、彼は苦笑した。

那須ん家に泊まるって言ったから」

「あぁ、那須くんか…」

その言い訳が、那須くんに迷惑をかけないことを願う。

妙な緊張感が2人の間に張りつめていた。ご飯を食べていても、テレビを観ていても、勉強をしていても。つとめて冷静を保とうと、笑顔になろうとしたけれど、"これからのこと"を考えずにはいられない。

「えっと、俺はどこに寝れば…?」

「とりあえず…ここに」

夜、私は龍我くんのために新しい布団を出した。なるべく彼から離れて、彼に背を向けて眠ろうとした。そうでもしないと、眠れそうになかったから。

「おやすみ」

そう言って部屋を暗くしても、すぐ傍に彼がいることを痛いほど意識していた。本当に、手を伸ばせば届く距離だ。

やっぱり、怖いんだ。

こうして同じ部屋で寝ているということ自体が、夢のようなことなのだ。

私たちは、どんなに近くても重なり合うことは許されない。たった2人で全ての責任を背負えるほど、大人ではないから。

忘れよう。これ以上望むものは何もない。何もないのだ。

そう言い聞かせても、すぐ傍にいる温もりに触れられない歯痒さが、胸を締めつける。

既に答えの見えた問いなのに、私はまだ問い続けていた。

なぜ龍我くんと一緒にいられないの。

耐えられない。耐えたくない。

「真梨…」

小さな声が聞こえた。

「…何?」

「そっち、行ってもいい?」

心臓が跳ねた。

答えあぐねていると、彼は苦笑した。

「何もしないから。大丈夫だよ」

「うん…」

深く息を吐く。龍我くんはそれで理解したのか、布団が擦れる音が聞こえた。

心臓が鳴っている。期待することなんてないのに。ただ、一緒に眠るだけなのに。

背中に、涼しい空気が流れ込む。

一瞬後、思いがけないほどの温かさが、私を包み込んだ。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

参ったな…

俺は溜息をついた。

眠れない。

どうしよ、真梨がいる。

修学旅行の夜でさえ感じなかったような、胸の奥の疼き。こんな状況だというのに、いやこんな状況だからなのか、健康な男子高校生の頭のなかでは超大型巨大台風並みの妄想がもくもくと膨れ上がっていた。

一瞬冷たい床を踏んで、温かいなかに潜り込む。

その華奢な体を抱きしめると、懐かしいあの花の香り。

壊れそうなほど儚くて、その儚さにひたすら願っていた。

この一瞬…一瞬でいいから、今夜一度きりでいいから、真梨の一番近くにいさせて、と。

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

背後から包み込まれた体は、だんだんと2人の体温が溶け合うように温かくなっていった。

微かな吐息も、触れる指先も、やたら敏感に感じてしまう。

龍我くんは私のうなじに鼻をつけて、ほとんど聞こえないような声で囁いた。

「ずっとこうしてたい…」

ずっと…

そんなこと、ありえないのに。

終わりの見えている恋だから。

暗闇が涙で滲んだ。布団に顔をうずめる。

どうしてだろう? どうして私たちなんだろう?

龍我くんを好きになることが、こんなにも苦しいことだなんて、思ってなかった。

あんなに強く決心したはずなのに、私は…私たちは……

「…こっち向いて?」

背後が動いた。横を向いている私の肩に手が置かれ、そっと仰向けにさせられる。

真上に、龍我くんの顔があった。

その瞳から涙がこぼれ、私の頬に落ちる。

「ごめん……大好き」

ほろりとこぼした龍我くんは、私に覆いかぶさって、唇を塞いだ。深い闇のような物悲しさが流れ込む。

…耐えたくない。

私たちは、苦しみを分け合うようにキスをした。お互いの全てを知ろうとするかのように舌を絡ませた。息ができなくなった。

もう、良いかな…?

私だけの人じゃない。そんなことはわかってる。

けれど…

頬を伝う涙が、首筋をさまよう指が、私の身体を火照らせる。

雨は降り続いていた。

誰にも分からない、知られないこの場所で。

…私たちは、とうとう最後までお互いを赦すことはなかった。

それでも、この刹那、私は龍我くんの腕のなかにいる。肌と肌が触れているのも、温かい吐息も、確かに感じることができたとき。

この刹那、だけは…

 

 

 

夢を見ていた。

 


澄み渡る空の下、門出を告げる鐘が鳴る。

盛大な拍手に包まれて、私たちは一歩を踏み出した。

隣に立つあなたは白いタキシード姿で、私を見つめて微笑んで…

「綺麗だよ」

やわらかい太陽の光が照らす庭園を、2人並んで歩いた。

時は進む。

突然、激しい痛みが襲った。

歯をくいしばる私の耳元で、あなたの声が聞こえた。

「がんばれ、真梨」

そして…

闇から光のもとへ生まれ出た赤ちゃん。元気な声で泣いている。

「ありがとう、真梨。ありがとう…」

あなたも目を潤ませる。

そしてまた時が進み…

私はキッチンに立って料理をしていた。

ふとリビングに目をやると、ソファーに座って台本を読んでいるあなたに、とてとてと女の子が寄ってきた。

「ぱぱー、えほんよんでー」

「今お仕事してるからちょっと待っててねぇ」

忙しいあなただけど、ちゃんと目を合わせて答える。

「えーっ、よんでよ、よんでー!」

絵本をぐいぐい押しつけられて、あなたは参ったように笑った。

「…いてて。もう、わかったよー」

絵本を受け取りながら、あなたが振り返った。

「……って、本好きなところとか本当に真梨そっくりだよね」

肝心の、女の子の名前が聞こえない。

「なに、龍我くん、もっとはっきり言ってくれないと…」

するとなぜか、視界が急にぼやけてきた。

「龍我くん、」

あなたの笑顔が滲んでいく。

「龍我くん……」

 


どこまでも、幸せな夢だった。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

「ただいま」

朝帰りした俺を出迎えてくれたのは、弟だった。

「あー、おかえり」

慣れた手つきで朝食を用意している弟を、背後から覗き込む。

「お前が作ってんの?」

「だって、まだお母さん起きてないし…」

これでも3ヶ月前までは大人ぶってブラックコーヒーを作っていたような奴だ。今は料理男子に目覚めたのか、はたまた主夫になりたいのか、部活のないときはほぼ毎日キッチンに立っている。

「制服、着替えてきたら」

「そうする。…あ、昨日ありがとう、伝えといてくれて」

てきぱきと準備する弟は、俺に笑ってみせた。

昨日、帰らないことを電話した相手は弟だった。兄弟という間柄もあるのだろう、母親より話しやすい。弟は俺の嘘を信じて、両親に伝えてくれたのだ。…心苦しいけれど。

立ち去ろうとすると、

「…龍我」

弟に呼び止められる。

「香水変えた?」

ドキッとした。

「え、くさい?」

「いや別に。なんかうっすらフローラルな匂いするけど気にはならないかな」

「あ…そう。よかった」

アイドルという仕事の影響もあってか、俺は香水を欠かさずつけている。今のお気に入りの香りは最近ハマりだしたばかりで変えてはいない。

なんでそんなことを訊くのか疑問に思いながら、俺は自分の部屋に行った。

弟に訊かれたとき、一瞬頭をよぎった可能性は、考えないようにしながら。

 

 

 

…?side……

 

 

 

私はドアの前に立っていた。

…大丈夫。

鉄製のドアノブの冷たさと木製の厚い扉の重さを、この手にはっきりと感じながら。

ドアを開けた。

「失礼します。お話があります、……校長先生」