ピの図書館

ピの図書館へようこそ。このブログでは、ツイッターに掲載しない長編小説を投稿しています。

【瞬 第8話 交錯①】

…真梨side……

 

 

 

ダンス部のパフォーマンスが終わると、シフト交代の時間。私たちは教室に戻り、今度は文化祭のキャスト側にまわる。

廊下を見ると、お客さんがずらりと並んでいた。

「ここ美味いらしいよ」

「あっ俺もC組の奴に聞いた。生徒の手作りだけどプロ並みだってさ」

そんな会話が聞こえてきて、なんだか照れくさい。

「お待たせしました。2名様どうぞ!」

声を張り上げてお客さんを案内しているのは、ウェイトレス担当の夏菜子だ。

「お客さん、途切れなく来てくれているわ。それと…真梨のアップルパイが特に好評みたいね」

隣の空き教室に置かれた簡易冷蔵庫から、今朝大量に作ったメニューを運び出していると、たまたま隣に来た麗華がこっそり耳打ちしてくれた。

「本当?」

「えぇ」

にっこりと口角をあげて微笑む。そして忙しそうに、楽しそうに私に言った。

「真梨、2番テーブルにこれお願い」

「はーい」

トレーを持って、テーブルに向かう。

「お待たせしました。アップルパイとチョコレートケーキと紅茶が2つになります」

お客さんの相手も、初めは緊張したけれど、今はすっかり慣れてしまった。何よりお客さんの笑顔を見るのが楽しい。自分の作ったメニューを「おいしいね」って食べてくれる、その心地良さ。案外、こういう仕事に向いているのかもしれない…なんて。

"pianissimo(ピアニシモ)"ウェイトレスとして働きながらそんなことを思っていると、後ろから突然、ぐい、と引っ張られる感覚があった。

「っ、と……はい、ご注文うかがいます。……えっ」

顔を上げたとたん、黒く澄んだ瞳と目が合って一瞬固まってしまった。

「オススメはなんですかー?」

いくぶん声を潜めながらもおどけて訊く彼は、色素の薄いサングラスとマスクをつけているけれど、間違いない。

…龍我くんと金指くんだ。

「オススメは、…アップルパイです」

とびきりの笑顔で答える。

「じゃあ、それで」

「俺も。あとコーヒーひとつでお願いします。以上で」

「おいっ俺のぶんは!? …あ、同じくコーヒーで」

2人のやり取りに笑ってしまいそうになりながら、

「かしこまりました」

そう言って調理スペースに戻る。

…ふぅぅ、びっくりしたぁ。

シフトの時間は昨日教えていたけれど、まさか本当に来るなんて思ってはおらず…

アップルパイとコーヒーを2つずつ乗せたトレーを運んでいく。

「お待たせしました」

「ありがとう」

あまり長く留まっていると怪しまれそうだから、すぐに離れる。すると、そっとマスクを外して、食べ始める2人。

「…ん、おいしい」

「ほんとだ」

そんな会話が聞こえてきて、顔が綻んだ。

担当したのが私で良かったかも。

夏菜子は入り口でお客さんの案内をしているから気づいていないみたいだし、他のクラスメートも気づいていない…というか、気づいたとしても大騒ぎになることはないだろう。暗黙のルールがあるから。

「……」

まって。入り口?

そのとき、ある予感がして、私は振り向いた。

 

 

 

夏菜子side……

 

 

 

「話があるの」

真梨から切り出されたのは、文化祭2日目の放課後だった。

カフェだった教室を片付けて、借り物の返却確認など最終チェックをするために下校時間ギリギリまで居残っていたあたしに、唐突にそう言ってきたのだ。

「ん、なに?」

2人しかいない教室、真梨がストンと口にしたのは、

「…佐藤龍我くん、のことなんだけど」

それは、まるで水面に小石が投げ込まれたような、静かな衝撃だった。

 

 

 

真梨の言葉を反芻し、咀嚼したけれど、

「え、…どういうこと?」

やっと口に出たのは、動揺の言葉だった。

「ねぇ…どういう…」

力の抜けた手で真梨の肩に触れると、彼女はまっすぐに見つめ返してきた。

「え…ちょっと待って」

手が震える。その振動が伝わったかのように、真梨の瞳が揺れて、小さな雫がこぼれ落ちる。

「嘘…でしょ、ねぇ」

それでやっと、冗談じゃないことを悟った。もともと冗談なんて言わない人だけど、あまりにも信じがたかった。

投げ込まれた小石が、鉄のおもりになって沈んでいく。

真梨から目を逸らして、あたしはぼうっと前を見つめた。

開いた窓から吹き抜ける秋風は、嵐の前の静けさを物語っているようだった……

 

 

 

違和感があった。

ウェイトレスとして入り口に立ち始めて、しばらく経った頃。

"pianissimo"は好評で、お客さんがずらっと列を作るほどで。

手元のシートにお客さんの人数を書き込みながら、

「何名様ですかー?」

慣れてきた仕事に、すっかり緊張も解けて顔を上げた。

「2人です」

「はい、2名様ですね。4番の席へどうぞ」

シートに"2"と書き込んだとき、ふっ、とペンが止まった。

…え?

カフェに入っていく2人に既視感をおぼえて、再び顔をあげる。

…まさか。

一瞬だけ合わせた顔は、間違いなくサングラスとマスクをしていた……

「あのー…」

次に待っていたお客さんの怪訝そうな声に、我に返る。

「あ、すみません。…何名様ですか?」

いかんいかん。

仕事に戻りながら、でもどうにもさっきの2人が気になって、たまたま近くに来た麗華に「ねぇ」と声をかけた。

「ちょっと代わって。ここ」

「え? でも私、接客とかしたことな…」

戸惑う麗華に、一番先頭にいたお客さんの男子たちが、

「麗華スマイルくださいよぉ〜!」

「相乗効果で来客アップするかもな!」

なんて、ある意味助け舟を出してくれたもんだから、無理矢理かもしれないけどすんなりポジションを代わった。

ちらりと4番テーブルを見たとたん、胸がドクンと鳴った。

変装をしていても、見覚えのある横顔。メニューを見ながら話している2人の男子生徒。

入所当時からファンの私には、すぐにわかった。

龍我とピッピ。

かなりゅ。

嘘…ほんとに来た…!!

はやる気持ちを抑え、カフェの隅に立って窺い見る。

やっぱり、間違いない。

どうしよう。話しかけたい。話しかけてみようか。

そうしたいのに、足が固まったように動けない。龍我を目の前にして、あたしは臆病だった。

…臆病だった。

話しかけていいはず、ない。

突発的に行動して、迷惑をかけるのだけは…それだけは、絶対に嫌だ。

この距離。

たった数メートルの間に流れている空気が、"東城の壁"を作っていた。冷めた思いが頭を貫いたとき、龍我がそっと手を伸ばした。

それはほんの短い出来事だった。

彼が掴んだのは、ウェイトレスの白い袖…

振り向いたのは、真梨だった。

「……!」

あたしは、目の前で繰り広げられるドラマのような光景をただ眺めていた。目を逸らすことはできなかった。

注文を受け、一旦下がった真梨はしばらくして戻ってきた。トレーを龍我の席に運ぶと、ぺこりと頭を下げて、すぐにテーブルを離れた。

この瞬間まで、あたしは視聴者だった。

"壁"の向こう側から戻ってきた真梨は、あたしから少し離れたカフェの隅に立った。それは一見、他のお客さんに呼ばれるのを待っているかのように見えた。

しかし、その視線の先は一点を見つめていた。その口元は微笑んでいた。

もしかして、気づいているの?

真梨が見つめる2人。

あたしが見つめる真梨と2人。

奇妙な三角形が、できあがっていた。

そのとき、真梨がふとこっちを振り向いた。

目が合ったとたん、大きな瞳が慌てたように瞬いて、すぐに逸らされた。

え…?

心のどこかに明らかな違和感を感じながら、文化祭の2日間はとぶように過ぎていった。

 

 

 

家に帰り着くと、あたしは制服のままベッドにダイブした。

枕に顔を埋めると、秋風で冷えた頭に血が回りはじめる。泣いた後のような疲れが重くのしかかっていた。

ふいにむず痒くなった鼻を啜る。

なに、泣いてんのよ……

枕にさらに顔を押しつけて、涙が零れ落ちないように、閉じた瞼の裏の闇を見つめた。

…なんで。

『付き合ってるの…私』

かすれ声しか出なかった。

綺麗な白い頬に涙が流れていた。

いつも一緒にいたのに、真梨の泣き顔を知らなかった。

泣かせてるのは、私…?

『ごめん…夏菜子』

最後に真梨はそう言った。

黙っていてごめん。裏切ってごめんね。

何の謝罪だろう。

謝る必要なんてこれっぽっちもないのに、それは思わず出た言葉のようだった。

あのときの真梨の表情を、あたしは忘れない。その痛みは、じわじわと効いてくる。

あたしは、"本気愛"を自称するファンが苦手だ。好きなのはいいことだけど、手の届かない人を"本気で"好きになれるわけない。そう思っているから。

理想と現実に線引きをしなくちゃいけない。例えば麗華だって、ピッピ担だけどアリーという彼氏がいるように。ちゃんと区別して見なければならない。

"好き"の勘違いはしない。その潔さも必要だって、それでこそファンなんだって、自分に言い聞かせてきた。

あたしは龍我の何ものでもない。ただのファンのうちのひとりだ。そんなことわかってるはずなのに。

夏菜ー、ご飯よー』

階下からお母さんの声がして、あたしは顔を上げた。

真っ先に飛び込んできたのは、壁に貼ってあるアイランドストアのポスター。

キラキラ輝くアイドルの彼を、今はまっすぐに見れなかった。

 

 

 

何ものでもないし、何ものにもならない。

それがアイドルだと思ってた。

でも、そんなのはファンが造り上げた幻想にすぎなかったんだ。こうあってほしいという理想像を突きつけて、アイドル"佐藤龍我"は造られたのだ。

その仮面を剥がせば…彼だってひとりの人間。

何の確信があって、彼が恋愛をしないと言い切れるんだろう。

誰も知らない場所で、ただひとりだけに見せている顔がある。

いつか、ただひとりの女の子が彼の隣に立つ日が来る。

…ただひとり。

それは親友だった。

あたしの大切な、親友だった。

【瞬 第7話 告白③】

夏菜子side……

 

 

 

文化祭3日前。

カナヅチの音や話し合いの白熱した声が響く教室。

ちなみに東城高校では、文化祭までの1週間、授業がなくなる。最後の追い込みに、クラスメートはみんな力を入れていた。

うちのクラスの出し物はカフェ。

でも、ただのカフェじゃつまらないから、ちょっと大人目線のオシャレなカフェにしようということになった。

それで決まった店名は、"pianissimo(ピアニシモ)"。なかなかシックな名前だと思う。

カフェを作るにあたって、クラスを3つのグループに分けた。看板作りなどの力仕事担当のインテリアチーム。ウェイター服を作る衣装チーム、メニューを考案するメニューチーム。

あたしは学級委員として、クラス内を見回りながら声をかける。

「衣装どのくらい進んだ?」

「あ、あとは細かい装飾かな。スパンコールつけたら完成だよ」

「了解。インテリアは?」

「これから看板のニス塗りするー」

「おっけー」

各チームの進行状況をノートにまとめていく。さすがに3日前というだけあって、カフェの全体像がだいぶ見えてきた。

よし、あとはメニューチーム。

「克也、頼むね」

「はいよー」

インテリアチームのヘルプに入っている克也に教室の監督を任せ、調理室へ向かう。

衣装チームが使うミシンは教室に持ち込むことができたけど、ガスコンロは持ち込めないから、メニューチームだけは調理室を借りて作業している。

_ガラガラ

ドアを開けたとたん、甘い匂い……

「わっ、すご!」

調理室は、すっかりお菓子の国状態になっていた。カフェをやるクラスはやはり多いのか、数十人でごった返している。

そのなかでも…

「すごーい! 水瀬さん」

「そんなのも作れるの?」

他クラス含め多数の女子に囲まれているのは、真梨だった。

「あ、ありがとう」

はにかみながら答えている。

「真梨!」

呼びかけると、少しホッとしたようにあたしを見た。

「今、試作品のアップルパイが完成したところなんだけど…味見してみて」

一口大に切ったそれを、パクッと食べてみる。

「う…うわ、おいしーっ!!」

レシピブックにでも載っていそうなほど完璧な見た目と味に、思わず目を見開いた。

「もー、こんなに上手いんだったら真梨ちゃん調理部入ってよー」

同じメニューチームで調理部の子が言う。

「ほんとほんと。真梨の腕に適う子は滅多にいないよ」

「いや、そんなことは…」

照れくさそうに首をすくめる真梨。どうやらうちのクラスのメニューは完璧のようだ。

「私ちょっと追加の材料持ってくるね」

アップルパイの他にも、出すメニューはたくさんある。調理室の冷蔵庫じゃ収まりきらなくて、臨時で借りているカフェテリアの大冷蔵庫に、材料を取りに行くらしい。

「じゃああたしもついてくー」

あたしも教室に戻らなくちゃいけないから、真梨と一緒に調理室を出た。

「…にしても夏菜子にしては珍しくまとめてるのね」

真梨があたしの持っているノートを覗き込む。

「学級委員だからね」

へへんと胸を張って答えると、真梨はふわっと笑った。

「…ねぇ、今年は龍我来るかな?」

期待を込めた小声。

実は、結構楽しみにしてたりするんだ。お忍びで、うちのクラスに来たりしないかなぁって。

真梨は苦笑いしていた。

「…去年来なかったから、今年も来ないんじゃない?」

「そっかなぁ…やっぱ無理か……」

あからさまにシュンとしたあたしを見て、真梨は慌てたように、

「いや、でも、来るかも…もしかしたら来るかもよ?」

このフォローに、パッと心が晴れちゃう、あたしって単純だ。

「ほんと、夏菜子ってわかりやすいよね」

あははと笑う真梨の、笑顔の裏の感情を、このとき知っていたら。

…知っていたら。

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

_ガラガラ

「おはよう、真梨」

書庫のドアを開けたとたん、大好きな人の笑顔が出迎えてくれる幸せ。

「おはよう」

龍我くんは、必ずといっていいほど私より早く学校へ来てここにいる。前に、忙しいのによく早起きできるねって言ったとき、『真梨に早く会いたいって思ったら早起きできるようになったんだよ』なんて笑ってたっけ。

「ん、なにそれ?」

ふと彼は、私の手提げを指差す。

「あ、これはね…文化祭の衣装」

「衣装?」

「うん。私のクラス、カフェやるの。大人っぽいメイド風の衣装なんだよ」

「メ、メイド!?」

なぜか目を白黒させて、龍我くんは慌てたように手提げから衣装を取り出した。白と黒のフリルワンピ。ファサッと広げて、まじまじと見つめている。

「これ、着るの…?」

その問いに頷く。なんか耳が赤いけど、どうしたのかな。

何を考えているのか、龍我くんはぱちぱちと瞬きをして、衣装を差し出した。

「あの、さ……」

「なに?」

「…着てみてよ、これ」

目を逸らして、彼は言った。

「…え、今?」

「そう、今…」

ボソッと聞こえた声。心臓がキュッとすぼんだ。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

しばらくして本棚の後ろから現れた真梨を見て、

「……可愛い」

素直な感想がもれた。

「え、あ、ありがと…なんか、普段こういうの着ないから似合うかどうか…」

正直、似合う似合わないどころのさわぎじゃなかった。

真梨を初めて抱きしめたとき、その体の細さに驚いたことを思い出す。身長は低いほうなのにスタイルが良いから、こういう衣装を着ても違和感が全くない。

いや、それにしても、普段は制服で隠されている部分の露出が……あんま、人に見せたくないな…って俺は何を考えてるんだ。

「あんまり、見ないで…」

真梨は恥ずかしそうに両腕を体の前で組む。

あ…やばい、なに、この感情。

胸の奥でざわざわとさざ波が立って、体がむず痒くなって、どうしようもなく抱きしめたくなって。

腕を掴んでグイッと引き寄せた。

ふわりとしたパニエが太ももに触れて、ぞくっとした。

真梨は一瞬だけびっくりしたように体を震わせたけど、それからはすっぽりと収まっている。

頬に手をあてると、かすかに潤んだような瞳が合う。

ねぇ、なんで落ち着いていられるの。なんでそんな目で見るの。

深淵を思わせる、少し開いた唇の隙間。何かを待っているように見えるのは、俺の気のせいだとは思いたくない。

変なプライドがあった。生まれる感情はそのせいにして、全部を君の唇に押しつけた。

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

頭がどうにかなりそう。

最初は触れるだけのキスだったのに、唇がこじ開けられるように舌が入ってきて、絡み合う。初めての感覚に息ができなくて苦しくて、それでも離れたくなくて、私は龍我くんの制服をぎゅっと掴んだ。

「…ん…ぅ…」

顔の角度を変えながら繰り返すその隙間から、龍我くんの吐息がもれる。頭の芯から熱く溶けていきそうなほど深いキス。

やがてそっと唇を離し、目を合わせる。

見とれるくらいにかっこいい。

綺麗な目に見入っていると、

「…やめてよ」

眉をハの字に曲げて、困ったように私を見る。

泣き笑いみたいな表情がフッと真顔になって、腰に回された手にグッと力が入った。

「っ!」

この体勢……

「ね、龍我くん、」

くるしいよ、と言おうとしたら、彼は私の腰をさらに引きつけた。

「…そういうことでしょーが」

甘く湿ったような声で言うから、もう何も考えられなくなった。

龍我くんの手が私の胸元で結んだリボンに触れて……

「…なんてね」

その手が、急に下ろされた。

拍子抜けした頭に、急に現実が迫る。

…忘れてた。

ここは朝の学校で、もう少しで別れる時間が来るはずで。

龍我くんと私にこれ以上の関係は許されない。

わかりすぎるほどわかっていた。

それでも。

「あと5分はこうしてていい?」

そっと囁かれた声に頷くと、今度は包み込むように抱きしめられる。

何かがふっとほどけるような優しい感覚が、たまらなく心地よかった。

このとき初めて感じたの。

過ぎ行く時の短さを。

 

 

 

『ただいまより、東城高校文化祭を開催いたします』

午前9時。生徒会長のアナウンスで、文化祭がスタートした。

「真梨ー、一緒に回ろー!」

夏菜子と麗華に誘われて、3人で校内をまわる。

各クラスの出し物の他にも、女装コンテストとかカラオケバトルなんかもやっていて、面白いし楽しいと評判の文化祭。

お化け屋敷に行ってから、クレープを買って一度校庭に出ると、

「うわ、すごい…」

人が溢れていた。

テニスコート3面分の校庭は、夏菜子によると1面をテニス部の公開試合で使うらしい。残り2面のスペースに設置された舞台では、今まさにダンス部のパフォーマンスが始まるところで、人が集まっているという訳だ。一番人気のある部活だから、パイプ椅子だけでは足りず、立ち見も出ている。

「これ観たら、ちょうど交替の時間ね」

麗華が腕時計を確認する。

舞台袖からダンス部員が登場すると、悲鳴があがった。

「いくよー!」

センターの子の掛け声に、さらにヒートアップする校庭。

『盛り上がってるかー!』

4ヶ月前、初めて行った少クラ番協での龍我くんを思い出す。

今、何してるのかな。

アップテンポな洋楽に合わせて踊る部員たちを見ながら、そんなことを考えた。

気づけばいつの間にか、龍我くんのことばかり考えてしまっている。ふとしたときに思い出して照れくさくなるのは、やっぱり恋しているからなんだろう。

 

 

 

きっと、わかってたんだ。

もう少しで、終わりが来ることくらい。

甘えていただけなんだ。

こんな近くにいれば……

『いつか必ず』

アーモンド形の目が、まっすぐに私たちを見つめていたから。

【瞬 第7話 告白②】

…橘side……

 

 

 

「え……?」

思いがけない言葉に、私は顔を上げた。

あんなひどいことを言ったのに、ありがとうなんて…

「橘さんの言葉は、確かにあの2人を傷つけた。けど…俺は、龍我の脇の甘さも、問題だと思ってる。橘さんはそれに気づかせてくれた。だから、ありがとう」

金指くんはまっすぐに私を見ていた。

「今日のことは、2人が関係を考え直す機会になると思うんだ。そこで2人がどんな結論を出すかはわからない。でも橘さんには、見守っててほしいなって」

その言葉に私は頷いて、目を閉じた。

目の裏に浮かんだのは、佐藤くんの笑顔だった。あのとき、慰めて勇気づけてくれた顔…その笑顔に、私は誓った。

今度は…道を踏み外さない。

感情を、履き違えたりしない。

_キーンコーンカーンコーン

「授業が始まるよ。急ごう」

金指くんが軽快に走り出す。

私は立ち上がり、お尻についた砂を払った。

「…ありがとう、金指くん」

彼は振り向き、にこっと笑った。

謝ろう、と思った。教室に行ったら、佐藤くんに謝ろう。

私はこの恋に終止符をうつ。

涙は拭いて、守らなくちゃいけないものを守ろうと思った。

 

 

 

夏菜子side……

 

 

 

授業中、あたしは幾度となく斜め後ろを振り返った。

…大丈夫かな、真梨。

「おい、どうしたんだよ」

隣の席の松井克也が小声で訊いてくる。

「別にぃ」

「別にっておまえさっきから後ろ向いてばっかだし…何? 後ろになんかあんの?」

「あんたには関係ないでしょ」

「こら、そこ。うるさいぞ」

数学の伊藤先生があたしたちを睨む。すいませんと舌を出した。

「…あんたのせいで怒られたじゃん」

「はぁ? なんでそうなるんだよ」

「余計なお世話だっつーの」

「おい何度言ったらわかるんだ」

先生がまたもやこっちを見る。

「よし、松井。お前この問題解いてみろ」

「うぇぇーっ、先生それはないっすよ! 夏菜子だって同罪じゃないすかぁ!」

「佐伯は勉強できるからな。お前は赤点補習組だろ? 学級委員のメンツが立たんぞ」

「ざんねーん。はい、行ってらっしゃーい」

背中をバンと叩くと、克也はあからさまに嫌がりながらも立ち上がった。

「え、わかんねーんですけど」

黒板の前に出たはいいものの、チョークを持って固まる姿に、クラスメートは爆笑。

「お前はちゃんと人の話を聞け…」

先生も眉間に指をあて、もう一度同じ説明を始める。

いつもの光景だ、いつもの。

あたしは、今度はそっと後ろを振り返った。

あたしから見ると8時の方向…窓際の一番後ろの席に、真梨が座っている。穏やかな表情で黒板を見つめる瞳は、いつもと変わらないように見えた…今朝のことがなければ。

 

 

 

真梨はいつも一番乗りだった。

毎日、文庫本を読みながらクラスメートを待ってくれている。やわらかい朝の日射しのなかで読書する姿は、なんというか、すごく似合っていた。

それが毎朝目にする光景だったから、たまにあたしのほうが早く教室に着いたりすると、調子が狂うような、変な気持ちがする。

今朝、真梨はやはり一番乗りだった。

しかし珍しく…彼女は机に突っ伏していたのだった。大好きな本を開かずに。

寝ているのかと思ったけど、親友に挨拶をしないと1日が始まらないような気がして、小声で呼びかけた。

「やっはろー…真梨?」

「……ん。あ…夏菜子。おはよう」

真梨はスッと起き上がって笑顔を見せた。その目はなんだか赤みを帯びているように見えた。まるで泣いた後みたいに。

「…あ、ハム太郎のエサ替えてない」

立ち上がりかけた真梨を、あたしは慌てて手で制した。

「いーよいーよ。本来うちの仕事だし」

「…ごめん、よろしく」

そう言うと真梨はゆっくりと座った。そして本を開くでもなく、ただ窓の外をぼんやりと眺めていた。

いつもなら喋るのに、会話が続かなかった。エサを替えている間も黙ったままだった。黙ったほうがいいかもと思った。

あんなに完璧に見える真梨にだって、悩み事のひとつやふたつあるのかもしれない。そうだよね、と頷くと、手に乗せたハム太郎がキチキチッと鳴いた。

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

生きていくなかで、人はどれくらいの出会いを繰り返すんだろう。ときに人生を狂わせるほど大きな出会いとなることもあるのだということを、私はこの恋で身をもって知った。龍我くんと出会ったことで、私の周囲が変わり始めたのだ。

その変化の序章…

『明日、書庫に来て。話したいことがあるから』

龍我くんからのLINEに、私は一瞬返事に迷った。

 

 

 

ベッドに寝転がって、白い天井を見つめる。

今日あったことを整理するのに、しばらく時間がほしかった。

「お姉ちゃん、ご飯ー」

ドアの向こうで沙耶が呼んでいる。

時計を見ると、もう6時半だった。重い体を持ち上げて、私はドアを開けた。

「ごめん、今から作るから」

「え、今から? もうお腹ぺこぺこ」

「うん…ごめん」

リビングに行くと、沙耶はさっそくテレビを点けた。

今日はムニエルにしようかと冷蔵庫から鮭のパックを取り出したとき、

『今日のゲストは、今話題の大人気女優、立花なつみさんでーす!』

陽気な司会者の声に、私は思わずテレビを見た。

「あ、ナッツだー」

彼女の主演ドラマを観ていたお陰で、気になったのか沙耶が音量を上げる。

生放送の番組だから、今まさに彼女は仕事の最中というわけだ。立花なつみ…橘菜摘は、今朝初めて会ったときと、受ける印象がずいぶん違った。

シルバーのラメが散りばめられたハイヒールを履いて、タイトな白いワンピースを着こなしている。とても同学年とは思えない。はきはきとした受け答えもノリの良さも、芸能人の立ち居振る舞いだ。

そして彼女はよく笑う。"元気で明るいキャラ"を作っているのかもしれないけれど、こういうのが業界に好かれる柄なのだろう。それは彼女自身も自覚していて、いくぶん余裕のある"ナッツスマイル"だった。

『水瀬真梨さん』

『ここに来ると思ってた』

あのとき、彼女は確かにそう言った。

どうして知っていたんだろう。私の名前も、秘密の場所も。

『所詮、顔目的なんでしょ』

私は画面から目を逸らした。直視したくなかった。彼女の笑顔を見たら、"裏の顔"が余計際立ってしまいそうで。

わるい人とは思わない。

『どういうつもり?』

あれは当然の指摘だ。恋愛禁止のアイドルと付き合うなんてどういう了見なのかと、そういう意味だろう。

だから、どちらかというと、こわい人…だと思う。

この笑顔が、"本当"とは限らない。

龍我くんと出会った頃のように、私は橘菜摘を錯覚しているのかもしれない。

 

 

 

翌日。

_ガチャ

書庫のドアを開けた瞬間、思わず声をあげそうになった。

「真梨…おはよう」

その日、私を迎えてくれたのは、龍我くんと…

「水瀬さん、はじめまして」

「は、はじめまして…」

どぎまぎと頭を下げる私。

「俺のこと知ってる?」

アーモンド形の目がしっかりと私を見据えている。

「金指…くん」

「そう、正解」

金指一世くん、だった。

彼は少しだけ口角をあげて、頭を下げる。

「龍我が、お世話になってます」

「え、はぁ…はい」

そういえば昨日、書庫のドアから金指くんも私たちを見ていたんだっけ。それを思い出すと、複雑な心境だった。私たちの関係を、金指くんが快く思うはずがないのだ。

「でも、どうして…」

金指くんがここにいて…私と会わせたのはなぜだろう。

私の問いに、金指くんは答えなかった。そのかわり、龍我くんを見上げた。

「…ちゃんと言うんだよ」

促すようにそう言うと、「しばらく外にいるから」と書庫を出ていった。

龍我くんが私に向き直る。

「真梨、話っていうのは…」

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

君が好きだった。

どうしようもなく好きだった。

とどのつまり、そういうことだったんだよ。

規則とかそういうものを取っ払ったら、もう君しか見えてなかった。

好き、という感情は不思議だ。ある日突然、他の何物も適わないほどの強さと大きさをもって、波のように迫ってくる。

だからなのだろう、繰り返し耳にしてきた規則に、その意味を疑うようになった。嘘のない気持ちに蓋をしろと、そう命じる規則とは何なのかって。

この感情のもとに、他の守るべきものの存在はかき消され…このとき俺は、明らかな息苦しさを感じていた。

縛られて生きることに、抵抗したくなったのだ。

…きっと身勝手なんだろう。無責任なんだろう。そういう後悔は常に根底にあって、それでも真梨と一緒にいたかった。

だから俺は決めたんだ。

「これからも…好きでいていいですか?」

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

彼は私に、2度目の告白をした。

普通の男子高校生ではなく、アイドルでもある彼としての告白を。

私は一歩彼に近づいた。

佐藤龍我を、真正面からしっかりと見つめた。

返事は決まっていた。

両肩に手を置いて、そっと背伸びして…あなたにキスをした。

ちょっと驚いたような表情をした彼は、次の瞬間、私を引き寄せて抱きしめた。

「…ありがとう、真梨」

 

 

 

これが正解とは思わない。

けれど、龍我くんがどんな決意をもって、その答えに踏み切ったのか…それがわかれば、もう十分だった。

私は静かに聞いていた。

この関係の行く先が告げる声を。

「このままでいれば…見つかるよ。いずれ必ず」

金指くんは、確認するように言った。

「それでもいい」

私たちは強く頷いた。

どくどくと胸が鳴っていた。

終わりの見える恋の始まりを知らせるように。

【瞬 第7話 告白①】

…真梨side……

 

 

 

私の朝は変わらない。

6時半の開門と同時に校門をくぐり、靴を履き替える。龍我くんと待ち合わせをしていたら書庫に行き、そうでなければまっすぐ教室へ行く。

今日は前者のほうで、もう何度秘密の時間を過ごしたかしれない図書館書庫に向かった。

_ガラガラ

「おはよう、」

ドアを開けたとたん、

「……」

思考が止まった。

本棚にもたれて携帯を弄っていたのは、龍我くん…ではない。

"彼女"は、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

そのとき、黒目がちの大きな瞳に私は既視感を覚えた。

形の良い唇が動く。

「あなたが、水瀬真梨さん?」

それは、およそ"彼女"の口から出るなんて信じられない問いかけだった。

呆然と立ち尽くす私を見て、それが答えだと思ったのだろう、"彼女"は澄んだ声で言った。

「はじめまして。…立花なつみです」

 

 

 

立花さんは携帯をしまうと、そっと椅子を引いて腰掛けた。いつも龍我くんと座る席…妙な気持ちになりながら、私も腰掛ける。椅子を引く、カタン、という音がやけに大きく聞こえた。

「立花さんって…あの、立花さん?」

やっと口に出た言葉は、"彼女"と偶然出くわしたら大抵の人がするであろう質問だった。

「"あの"っていうのが具体的にどれを指しているのかは知らないけど、…そうね、"あの"立花なつみよ」

また彼女も、この質問には慣れっこらしく、すらすらと答えた。

「もっとも、立花なつみは芸名だけど。正しくは、1文字の"橘"に菜っぱを摘むと書いて"菜摘"。まぁ、字面が変わるだけね」

彼女の活躍なら知っている。専属モデルを務めるティーン雑誌はよく買っているし、つい先日まで主演ドラマを観ていた。

私は呆然と彼女を見つめた。

ここは…この高校は、隣り合わせではあれど決して交わらない2つの世界が存在している。

彼女がどうしてこの場所に…書庫にいるのか、わからなかった。

いや、思考が止まっていた。許された機能は、ただこの事実を目に映すことだけ…

やっと思考が回ったのは、流れる空気に動きがあったからだった。

_ガラガラ

ドアを開けて入ってきたのは、

「…っ」

龍我くんだった。

私たちの姿を認めて一瞬静止し、

「…橘」

その口から、うめくような声が漏れた。

彼はそのまま、何も言葉を発さなかった。

彼女もまた、静かに彼を見つめていた。

私は驚くほど冷静だった。この状況が危機だと、そう思い知るのに時間がかかった。

ただ、ゆっくりと速まっていく胸の鼓動だけを感じていた……物語の終わりへの、カウントダウンのようなその音を。

 

 

 

…金指side……

 

 

 

…遅かった。

書庫のドアの前に、俺は座り込んだ。

橘さんからLINEが来たのは、今朝早くのことだった。

『私やっぱり隠しきれない』

その一文が目に飛び込んだ瞬間、俺は家を飛び出した。

我が家と高校の距離の遠さを、これほど呪ったことはない。朝のなまった体に鞭打ち、並外れた運動神経を味方につけても、高校に着いたのは6時45分。

橘さんのタイミングは絶妙だった。どんな偶然か、翌日だったのだ。"水瀬真梨"という名前を出して龍我を問いただし、全てを知った翌日。それが、今日だった。

『…金指、ごめん』

昨日、龍我の第一声はそれだった。

…黙っててごめん。裏切ってごめん。

様々な意味を含んだ"ごめん"だった。

その後語られた内容は、俺の想像通りだったから衝撃的ではなかった。心構えができていたぶん、その事実をあっさりと受け入れられた。

『どうしよ、俺…』

戸惑う龍我に、俺は仕事仲間ではなく、親友として答えた。

『好きになっちゃったなら、もう仕方ないことなんじゃないの?』

不思議と責める気持ちは湧かなかった。

恋愛に是非なんてない。橘さんに話をされてから考え続け、辿り着いた結論はそれだった。

『…彼女のことを、絶対守れるって約束するなら』

そう言うと、龍我はしっかりと頷いた。

『…わかった。金指、ありがとう』

 

 

 

約束とは、脆いものだ。

慌てて高校へ行き、靴箱で龍我と橘さんが既に来ていると知ったとき、昨日の約束が破られたことを…第三者によって、いとも簡単に破られてしまったことを、俺は悟った。

書庫のドアに耳をつけると、低い話し声が聞こえた。龍我と水瀬さんと橘さん。3人は間違いなくここにいる。

今すぐ中に入りたい気持ちに駆られたけれど、今は橘さんが事実確認をしている。俺が来たら、話を余計ややこしくするだけだろう。

開けられないドアの手前、これから先どうするか、俺はそれだけをひたすら考えた。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

「2人とも、ここに来ると思ってたわ」

重い空気を破ったのは、橘の声だった。

彼女は立ち上がり、本棚に寄りかかった。腕を組んで、俺と真梨を眺めている。

「どういうことだよ…?」

「そう訊きたいのは私なんだけど」

がっつりと、目が合った。気の強い視線に負けないように、睨み返す。

「佐藤くん」

彼女は静かに息を吐いた。

「自分の仕事、忘れたの?」

それは一見、呆れたような口調だった。けれど俺はその言葉に、はっきりとした怒りが見え隠れしているのを感じた。

「…あなたも、どういうつもり?」

彼女は真梨に目を向けた。2人の瞳が合う。

「私、は…」

真梨の瞳が揺れた。その動揺を手玉に取るかのように、橘は真梨の耳に口を寄せ、形の良い唇をそっと開いた。

「…所詮、顔目的なんでしょ」

「ふざけんなよ!」

思わず間に入ってその胸ぐらを掴んだ。

橘の逸らした目が、ゆっくりと戻って俺を捉える。激情をたぎらせて睨みつけながら、彼女は俺の手を振り払った。

「…もういい」

_ガラガラッ

凄まじい音をたて開かれたドアから、橘は走り去っていった。

捨て台詞かよ……

ドアを見つめると、開いた隙間から見知った人影が覗いた。

「…金指」

もう何が起きても驚かなかった。

なんでここにいるのかも訊かなかった。

金指は静かな声で「…慰めとくから」と言ってドアを閉めた。

俺は真梨に目を向けた。

小動物のように怯えた目のまま、彼女はドアを見ていた。

「真梨…」

両肩を抱いて顔を覗き込むと、真梨の瞳から涙が溢れた。

「龍我くん、ごめん…ごめんなさい」

その言葉が、胸を突いた。

ぎゅっと抱きしめて、背中をさすった。

「うぅん、いいよ…もう何も言わなくて」

なんで真梨が傷つくんだろう。何も悪いことはしていないのに、なんで。

_キーンコーンカーンコーン

無情にも7時のチャイムが鳴った。これ以上ここにいたら、図書館に他の生徒が来てしまう。

真梨はそっと体を離して、精一杯の笑顔を見せた。

「…ありがとう」

 

 

 

もっと抱きしめていたかった。

君が泣きやむまで、抱きしめていたかった…

 

 

 

…橘side……

 

 

 

廊下を走る。

あのときみたいに、地面がぼやけていく。初めて書庫で佐藤くんたちを見たときみたいに。

『…まり』

愛しくてたまらないというように呼ぶ声。脳内から消えないその名前は、定期テストのたびに1位として廊下に貼り出される名前と一致した。

"水瀬真梨"。

実はどこかで期待していた。

あの2人が、お互いに離れていってくれることを。

けれど、そんなことがあるわけはなく…

再び2人を同じ視界に収めたら、感情は抑えられなくなってしまった。

なんてことを言ってしまったんだろう…

『所詮、顔目的』

そう吐き捨てたときの、水瀬さんの顔が忘れられない。

大きく見開いて、私を見つめていた目。白い顔と青ざめた唇。

ショックを受けると、人は声さえ出なくなるんだと…実感した。

本当は、あんなこと言うつもりじゃなかったのに。

手で覆った口から嗚咽が漏れる。今更後悔しても遅い。

2人を傷つけた。ひどい言葉で、嫉妬心をぶつけてしまった。

「…橘さん!」

後ろから、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。涙を拭いて、私は逃げるように走った。

…彼に追いつかれるなら、校舎裏がよかった。

「橘さん! 待って!」

肩に手が置かれる。振り向くと、やっぱり金指くんだった。

私は木の幹に手をついて、息を喘がせた。泣いたのと走ったのとで息が苦しい。それでもなんとか声を絞り出した。

「…どうしよ…どうしよう私…」

顔を覆って座り込んだ私に、金指くんは単刀直入に言った。

「橘さんは、龍我のことが好きなんだね」

すっかり見抜かれている。

そりゃそうだよね…付き合っている2人の前で、声を荒げてしまったんだから。

金指くんは首を振った。

「実はだいぶ前からなんとなくわかってた」

「え、…いつから?」

「高1のとき…橘さんがひどいバッシングを受けてたときから」

そんな前から知ってたんだ…私の気持ちを。隠していたつもりだったのに。

「しのぶれど、色に出でにけりわが恋は、ものや思ふと、人の問ふまで、って言うでしょ?」

古文の好きな金指くんらしい例えだった。

「わかるんだよ、2年も一緒にいると。龍我ならなおさらだね。知り合って4年近くになるし。だから、龍我が考えてることも、橘さんの気持ちもわかる」

わかった気にならないでよ。

そんな言葉は、金指くんの前では不思議と出なかった。なんでもお見通しな気がしたから。

「橘さん」

彼は囁くように言った。

「ありがとう。龍我を好きになってくれて」

【瞬 第6話 疑念③】

…真梨side……

 

 

 

「えぇーっ! 断ったの!?」

「ちょっと、声が大きすぎ…」

昼休みの教室にこれはまずい。一瞬にしてクラスメートの視線が私たちに集まる。

「いつものことだよな」

夏菜子の隣でカツサンドにがっついている松井くんが、やれやれという感じで苦笑した。

「ってか初耳なんすけどー、蓮って水瀬が好きだったの」

「ん、そうだよ」

高野くんがクールに答える。彼の私に対する態度は、告白の前と変わらない。お陰で私たちの間に妙な気まずさはなく、友達として通常通り付き合っていけた。

「もーいっそ、付き合っちゃえばよかったのに」

夏菜子の一言が、少し胸に痛い。

「けどさ、なんで振ったのか理由聞きたいよな。こんなイケメン君をさ」

「いや、それは…」

「他に好きな人がいる、とか?」

小さい声が聞こえたので見ると、有沢くんが真顔で私を見ている。

「そうね。告白を断る大抵の理由はそれだわ」

向かいに座る麗華も、じっと私の顔を見つめる。怖いなー、このカップル。

「で、どうなのよ?」

「どうなのよって言われても…」

どうなのよって言われても、好きな人がいるのは事実だし、というかもう付き合っているし、いや、だけど相手が……目の前の夏菜子を見ると、申し訳なさと後ろめたさを感じて何も言えない。

「あー、こりゃいるな…」

その顔がふんふんと頷いた。

「いるのね」

「いるんだな」

「いるのか…」

「やっぱいるね」

「な、なによー。納得したように…」

慌てて取り繕うも、もう遅い。

「意外だな。水瀬が恋愛って」

「まぁ確かに。本が恋人みたいなもんだしね。その様子じゃ」

夏菜子がパンをくわえて、私の机の端に置かれた本を取り上げた。

「はーっ、むずっ! 何これ、"法医学論"…アンナチュラルのノベライズ?」

「お堅い法医学の本に決まってるでしょ。こら、食べながら読まない」

麗華がしらっとした目つきで注意する。

「読めないよ意味わかんないもん。…てか、あー、あたしもリアルに恋したいなぁ!」

「佐藤龍我ファンでいる限り無理だろ。理想クソ高そう」

「高くて何が悪いんですかー? 顔面偏差値低い奴に言われたくありませーん!」

「はぁ!? お前今なんつった?」

「ちょっとー、2人ともやめなよ」

いつもの口げんかに苦笑しつつ、私は心の奥で焦りを感じていた。

いつまでも隠し通すことはできない。龍我くんとの関係は。

いずれ、話さなくてはならないときがくるのだろう。

夏菜子のことを思うとつらかった。入所したての頃からファンで、私よりはずっと"美 少年"を、アイドル佐藤龍我を知っていて…

複雑な気持ちを抱えたまま、私は夏菜子に接していた。

打ち明けたくない。

どこかで期待していたからかもしれなかった。

この関係が、まだ続くんじゃないか…続けられるんじゃないかって。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

最近、違和感を感じる。

授業を受けている間中ずっと、背後から視線を感じる。窓際の一番後ろの席なのに。

誰もいないのにそう感じるのは、強迫感情の一種なのだと聞いたことがある。ストーカー被害者に多い症状だと。

俺は溜息をついた。

原因はなんとなくわかっていた。

『付き合ってる人っている?』

金指からそう訊かれたとき、比喩でなく、本当に頭から血の気が引いた。

あいつ、気づいてるのか?

前の席に座っている背中を見つめても、彼の考えていることはわからない。いや、面と向かい合ってもきっとわからない。金指一世とはそういう人だ。

「それじゃあ連絡」

6時間目。珍しく全員揃った教室で、LHRが始まった。

「今週末、文化祭がある」

担任の言葉に、クラスがどよめく。

そういえば、もうそんな季節だ。トレイトコース生徒は文化祭を"作る"立場にないので、いまいち実感が湧かない。

「それで、いくつか注意事項がある。文化祭中は全生徒どうしの交流が可能だが、異性どうしの交流は避けるように。それから、異装する人は異装届を提出すること。なお、サングラスとマスクの異装は校風に影響するので禁止」

ようは、"お忍び"みたいなものだから、バレないように最大限の努力をしろということだ。

ちなみに文化祭で一般公開されるのは一般コース校舎のみで、トレイトコース校舎は通行禁止になっている。またチケット制であり、外部の人間は生徒からの招待がないと校内にすら入れないという徹底ぶりだ。

「おい」

前の席の背中をつっつく。

「…ん?」

金指がゆるゆると振り向いた。アーモンド形の目がとろんとしている。どうやら寝ていたらしい。授業中に寝て気づかれないとか…空気に溶け込む術はお手の物のようだ。

「文化祭、行く?」

「行く」

それだけ答えると、金指はまた前を向いた。寝に戻るの早いな。

その動かない頭を見て、ふと、こいつなら女子と付き合うなんてことしないんだろうな、と思った。

 

 

 

…金指side……

 

 

 

机に顔を伏せて、俺はずっと同じことを考えていた。

"あの件"について訊いたことで、龍我が気にし出しているのはわかった。ときどき探るような目で見てくるから。

けれど、無表情を装うのは俺の得意分野だ。計算高さなら負けない自信がある。

その計算と、元来の勘の良さを使って俺は考える。

龍我が付き合うとしたら誰か。

橘さんは、"見知らぬ女の子"と言っていた。つまり一般コースの生徒というわけだ。

"東城の壁"に隔てられた2つのコースが交わるのは生徒会のみで、龍我は生徒会の人間ではない。

校内での一種のすれ違いだけで恋に落ちるとは思えない。惚れっぽい性格ではないし。

だとしたらどこで出会ったのか。

『俺、恋愛を始めるには何かしらのきっかけが必ずあると思うんですよね』

以前、雑誌のインタビューで彼はそう答えていた。

きっかけ。

人を好きになる機会が、そのタイミングが、ある日龍我に訪れたということか。

自然的なすれ違いじゃなくて、用意された"出会い"があったとしたら。

例えば、番組収録で出会う人々…

事前に、いずれ出会うと予測できていて、…出会った人物。

「…金指、いい加減起きろよ」

「ん、」

背後から肩を叩かれる。振り向いて龍我と目が合ったとたん、唐突に頭のなかに浮かんだ。1学期の期末テスト優秀者の紙と…"その人"の名が。

「文化祭の注意事項のプリント読み通すってさ」

そう言う龍我の顔を直視する。

「いくら眠いからって授業中に寝るのはよくな…」

「龍我」

「ん?」

彼は片方の眉を上げて首を傾げた。

その仕草に、俺は問いかけたかった。

水瀬真梨…彼女なのかって。

彼女と、付き合ってるのかって。

「…ごめん、ありがと」

俺は起き上がる。

その名前を口にしていいものか、迷った。

このまま何も訊かずにいられれば、どんなに良かったかと思う。けれど俺は、微妙な距離感を意識しながら彼に接することが、高校の同級生でもあり事務所の同期でもある彼にそう接することのほうが、苦痛でならなかった。

それに…その名前を出さなければ、龍我はきっと彼女の存在を認めない。

嘘は、つかないでほしい。

表情の探り合いはやめて。

…本当のことを、話してほしい。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

秘密というのは…

隠そうとすればするほど、守ろうとすればするほど、生まれた疑念を大きくしていく。手のひらから水が落ちていくように。

なぜだろう。自分の気持ちとは正反対にそれは働く。

抱え込んだものが、大きすぎたんだ、きっと。

まだ暑さの残る校舎裏で、

「あのさ、龍我…」

金指はその顔を俺に向けた。

「水瀬…真梨さん」

あまりにもまっすぐなその目は、嘘をつくことを許さなかった。

「付き合ってるでしょ? 水瀬さんと」

【瞬 第6話 疑念②】

…龍我side……

 

 

 

どこから崩れたのだろう。

どこで知られたのだろう。

あの脆く、密かな関係は。

今も俺はその瞬間を知らない。

知りたくもないし、聞いたこともない。

それが"彼"の…金指一世なりの優しさだと思ったから。

 

 

 

その日、宿題で出された世界史のレポートを書くため、金指と俺は図書館に来ていた。

それは突然のことだった。

資料となる本を探しているとき、彼は呟くように言ったのだ。

「龍我。今、付き合ってる人っている?」

 

 

 

…金指side……

 

 

 

『佐藤くん、女の子と付き合ってるみたい』

同じトレイトコースの橘菜摘に呼び出されたのは、2学期が始まって1週間経った頃だった。

まだ蒸し暑い校舎裏で告げられた衝撃の事実に、俺は目を丸くした。

『どういうこと? 相手は?』

『それはわからない。けど、プレゼントあげて、楽しそうに話してて…』

それだけならまだ良かったかもしれない。けれど、彼女は一瞬ためらい、再び口を開いた。

『それに…キスしてた』

その言葉が脳天を直撃した。

ただならぬ関係になっている。

直感で、ヤバい、と思った。

『…このこと、誰にも言わないで』

俺は念を押した。彼女は何度も頷いた。

 

 

 

橘さんのことをまるっきり信じたわけではない。彼女も女優だし、演技がうまいからだ。

ただ、もし嘘だとしても、とりあえず龍我には確認しないといけない。

嘘であってほしかった。

早く安心したかった。

そして、直球な…今思えば、直球すぎる質問を投げかけた。

 

 

 

「龍我。今、付き合ってる人っている?」

「はっ!?」

唐突な質問に、龍我は心底驚いたようだ。目を瞬かせ、

「いないよ。いるわけないじゃん」

「そっか。なら、いいよ」

本に目を戻した俺の顔を、龍我は不思議そうに覗き込んだ。

「なんでそんなこと訊くんだよ? ありもしない噂たってんの?」

「違うよ。ただ気になっただけ」

誰とも付き合っていない。それならいいのだ。"アイドル"でいるのだから。

「…なんか、気になる」

ボソッと、声が聞こえた。

「影で噂してる奴がいるなら、遠慮しないで俺に言ってよ。知らないほうが気持ち悪いから」

「ん? …あぁ、わかった」

頷くと、龍我はお目当ての本を見つけたらしく、「お先にレポートまとめてるわー」と席に戻っていってしまった。

その背中を見つめながら、さっきの龍我の言葉に、微妙な違和感を覚えていた。

今までの龍我は、そういう類いのことについて訊かれても、ばっさり否定するだけで、それ以上は気にしていなかったと思う。少なくとも、さっきみたいに『噂があるなら言ってよ』なんて言わないはずだった。

なぜ……?

そういえば、と思い返す。ここ最近の龍我の変化。それは、俺の目にいくつも見てとれた。

妙にぼんやりと窓の外を眺めていたり、一度呼びかけただけでは反応しなくなったり。それから、よく携帯を弄るようになった。

"気にしすぎ"の一言で片付けられるなら…橘さんの話がなかったなら…、俺はあんなことを訊かない。そして龍我だって、あんな答え方はしない。

"なぜ"が"まさか"に変わる。

本当に、付き合っている人がいる…?

 

 

 

俺が本を選んで席に戻ると、龍我は、

「何について調べんのー?」

いつもみたいな底抜けに明るい調子で訊いてきた。

アヘン戦争について」

上の空でそう答える。

本を読みながら、俺は真正面に座る龍我を盗み見た。

ページをめくる手がふと止まる。本の一箇所に目を落としたまま、彼は動いていなかった。

…わかりやすすぎんだよ、龍我。

胸のなかで生まれた疑念が、確信に変わっていくのを、俺は感じていた。

 

 

 

…橘side……

 

 

 

"放課後 校舎裏 金指"

漢字が羅列されたメモを握りしめる。靴箱に入っていたそれは、ノートの切れ端に殴り書きしたようだった。

ローファーを履き、急いで校舎裏に行くと、大きな石に腰掛けて宙を見つめる姿があった。

「金指くん」

「…結論から言うと」

金指くんは私に目を向けないまま、淡々と告げた。

「龍我は付き合ってないよ」

「え……」

その答えに、私は焦った。

「で、でも、あのとき確かに」

「橘さんが見たのは、」

彼は私を見て、僅かに口角を上げた。

「龍我じゃない」

 

 

 

さっきまで金指くんが腰掛けていた場所に、私は膝を抱えて座り込んだ。

怖かっただけなんだ、きっと。

書庫のドア越しに聞こえた声が、あのときみたいに優しい声だったから。

高1のとき、初出演した映画で酷いバッシングを受けた。張り切って挑んだ役だったのに、"主演の子がかすれる"、"邪魔"などと散々に言われて、まだ芸能界デビューしたてだった私は、耐えられなくて毎日泣いていた。クラスのみんなが私を慰めてくれたけど、一番心に響いたのが、佐藤くんの言葉だった。

『俺知ってるよ、休み時間とか必死に台本読んでセリフ練習してたの。橘はさ、一番がんばってるじゃん』

そして明るく笑いながら続けた。

『必ず誰かが見てくれる。いつかいいことあるって』

私より2年芸能歴の長い彼は、そのぶん私より大人だった。

他の誰よりも勇気づけられた言葉に…彼に、私はいつの間にか、恋に落ちていたのだ。

でも、いつか図書館で聞いた一言に、私はハッと目が覚めた。

『用がないなら話しかけないでくれない?』

冷たい声。そのとき、私の恋は一方的なものだと思い知った。いつもファンの女の子たちに囲まれている彼は、私のことなんて何とも思っていない。たとえ同じ業界の人間だとしても、どんなに近くにいても。

私はそれでも、彼が好きだった。密かに想い続けていた。だから…

『可愛い。ほんと。大好き』

教室では滅多に聞かない甘い声に、立ち止まってしまったのだ。

こんな時間に、こんな場所で、ドラマの台本でも読んでいるのかな。

一瞬でそう思ってしまった私は、もしかしたら現実を認めたくなかっただけかもしれない。

『佐藤く…』

呼びかけようとしたとき、被せるように、『可愛い!』

女の子の声が響いた。心臓がドクンと鳴った。

細い隙間からそっと中を覗くと、こちらに背を向けて立っている佐藤くんと、その向こうに、見知らぬ女の子がいた。

誰…?

セミロングの彼女の表情は、伏せていてよく見えない。その子は、手に何かを持っていた。

『…まり』

佐藤くんの優しい呼びかけに、彼女はそっと顔をあげる。大きな目が印象的な女の子だ。

それはまるで、映画かドラマのワンシーンのように、見つめ合う2人は、私の前で唇を重ねた……

胸を覆っている苦しさに気づいたとき、私はやっと我に返った。そして、事の一部始終を凝視してしまったことを後悔した。

逃げるように立ち去りながら、さっきの景色がよみがえる。

目を閉じて身を委ねていた、彼女の姿。佐藤くんにとって、"特別な存在"であることはすぐにわかった。そして、私なんかより遥かにお似合いに見えた。

あんなの、見たくなかった。

あんなの、佐藤くんじゃない。

下を向いた目頭が熱くなり、地面がぼやけた。

なんで……

胸にせりあがる苦しい感情。

嫉妬なんて、私らしくもない…

それから1週間、幾度となく考えた。この事実を1人で抱え込んで処理できるほど、私は大人じゃなかった。

金指くんに、話してみようか。

放課後に呼び出すと、彼はあっさりやってきた。佐藤くんと違い、教室外の会話でも抵抗はないようだった。

私は全てを話した。表面上、佐藤くんの今後を心配しているふうを装ったけれど、勘のいい彼は気づいたかもしれない。私はただ、残酷な感情で2人を引き離したかっただけなのだ。

それが、失恋した私の、せめてもの反抗だった。

 

 

 

それなのに。

勇気を出して、言ったのに。

『橘さんが見たのは、龍我じゃない』

納得のいく答えは、得られなかった。

『あれは龍我じゃないんだ』

意味がわからない。

だって、私が見たのは紛れもなく佐藤くんで。

『じゃあ、俺は帰るから』

『ま、待って』

金指くんは呼び止められるのをわかっていたかのように、足を止めた。

そしてチラッと振り向いて…

『ごめんね、橘さん』

逃げるように、走っていってしまった。

あぁ…そうか。

そのとき、彼の真意がわかった。

金指くんは遠回しに"隠し続けろ"と言ったんだって。

真実を知った金指くんの答えは、佐藤龍我の保身だった。

もう、どうしようもできない。

"彼のために"

私は、真実を隠すことを決めた。

 

 

 

…龍我side……

 

 

 

暗い夜空を、ひとり見上げていた。

幾千にも瞬く星。

それらに明るさがあるように、守るべきものにも大きさがある。

君を守れるほど、強くなれればよかった。

一番大切なものなんて、本当は決められるはずがないのに。

【瞬 第6話 疑念①】

…真梨side……

 

 

 

学校までの道を歩いていた。

あるかなしかの風が吹き、足元をすり抜けていく。

9月2日。今日から2学期が始まる。警備員さんしかいない、早朝6時半の学校に入ると、私はその足でいつもの場所に向かった。

_ガラガラ

書庫のドアを開けたとたん、強い力で引っ張られて、

「……真梨」

龍我くんの腕に抱え込まれる。

「…おはよ」

おかしい。少し会っていなかっただけなのに。この香りも感触も、懐かしいと感じる私がいた。

「おはよう」

ぎゅーっと抱きつくと、「うぉ、苦しい」と照れたように笑う声。

「なぁにー? 寂しかったのー?」

からかう声が、いつもの龍我くんで安心した。

「可愛い。ほんと。大好き」

出会った頃よりはだいぶ開けっ広げになってきた口調に、私の顔はたぶんきっと真っ赤だ。

体を離して制服を直しながら、龍我くんが言った。

「そうそう。真梨にプレゼント」

「プレゼント?」

「…これ。どうぞ」

小さな紙袋を渡される。ドキドキしながら中身を見てみると、入っていたのは…

「可愛い!」

私は思わず歓声をあげた。

香りつきのブックカバー。薄紫色の花柄が女の子っぽくて可愛らしい。

私の大好きな本にかける、大好きな人からのプレゼント。

でも、私は龍我くんに何も買ってない…

ふっと真顔になった私に、

「あー、いいのいいの」

彼は軽く手を振った。

「本当は真梨の誕生日に渡してもよかったんだけど、冬まで待てなくて」

そう、私の誕生日は、12月24日。教えたとき、クリスマスイブなんて偶然だね、と驚かれた。

「ま、誕生日にもあげますけどね?」

ニヤッと笑った龍我くんには、本当に感謝しかない。

「…ありがとう」

「どういたしましてー」

ブックカバーを見つめて、私は思っていた。

このとき2人、当たり前みたいに思っていたんだ。

クリスマスイブも、一緒にいられるって。

「…真梨、こっち見て」

龍我くんの顔が近づいてきて、私は全身の力を抜いて目を閉じた。

お互いの"好き"を確かめ合うかのように、長い、長いキスをした。

 


現実は、すぐそこにいた。

…目を閉じていなければ、それに気づくことができたのに。

 

 

 

…?side……

 

 

 

速く歩いた。

足が痛くなるくらい、速く。

あの場所から逃げたくて、遠ざかりたくて。

あの人のいるあの場所から。

どういうこと?

理解できなかった。

こんな朝早くに、生徒がいるわけない。そう思って手をかけたドア。それは開かれる寸前で止められた。

僅かに開いた隙間から、聞き覚えのある声と、もうひとつ…誰かの声。

その瞬間、ありえないはずの情景が目の前に現れ、呆然と立ちすくんで…私は、動けなくなっていた。

心臓がどくどく気持ち悪い音をたてて、吐き気がした。

ここにいてはいけない。

私は重い足を必死に動かした。歩いて、歩いて…教室という現実に、戻ってきたのだ。

 

 

 

…真梨side……

 

 

 

7時前、教室に行くと、珍しく夏菜子のほうが先に登校してきていた。

「やっはろー、真梨」

「おはよう。今日早いね」

いつもは私が一番乗りだから、既に誰かいる教室に入るのは不思議な気分。

「いや逆に真梨にしては遅くない? 寝坊?」

「う…ん。まぁそんなとこ」

適当にはぐらかして席に座ると、夏菜子が私の顔を覗き込んだ。

「…で、どうなった? あの件」

このタイミングであの件、といったらただひとつだ。私は横に小さく首を振った。

「えー…お似合いだと思うけどな。真梨と高野」

あの後…ディズニーランドに行ったその翌日、私は夏菜子にだけ、高野くんに告白されたことを話した。彼女はふんふんと頷きながら聞いてくれて、

「付き合っちゃえば?」

いとも簡単に答えを出した。

「だってあんなイケメン、滅多にいないよ? あたしも良い奴だと思ってたし。…ま、龍我のほうがイケメンだけどね」

"龍我"。その名前を聞くたびに、胸が塞がるような思いがする。

高野くんから告白されたとき、私の頭のなかには、龍我くんの顔が浮かんでいた。

あの日、涙を流しながら私に想いを伝えてくれた彼の姿を。

迷っていた。純粋な瞳でまっすぐ私を見つめて、"好き"と投げかけてきた高野くんの向こうに、龍我くんが立っているように感じたから。

2人はよく似ている。

自分の魅力も、振りまく笑顔も、女の子の惹きつけ方も。

だからなのか、私はあのとき、

『ごめんね、少し考えさせて』

はっきりと、断れなかった。

『うん、気長に待つ』

高野くんは少し笑って答えた。

残った夏休み、私は考えた。

自分の答えは既に決まっている。

あとはどう断るか…

それを考えていた矢先の夏菜子からの返答に、私は面食らった。

でも、普通ならそう答えるよね…

「んもー、ここまで来て進展なしとか、親友としてじれったいんですけど〜!」

夏菜子は両足をばたつかせた。彼女としては、高野くんと私をくっつけたいみたい。

でも、でもなぁ…

はぁー、と長い溜息をついたとき、教室のドアが開いて、クラスメートがわらわらとやってきた。そのなかに松井くんと高野くんがいて、私は思わず下を向いた。

2人は私たちに気づき、「よー!」と手を上げる。

「やっはろー。あれ、アリーは?」

夏菜子がきょとんとしている。確かに、いつも一緒に来ているはずの有沢くんがいない。

「ん、あぁそれはだな…」

松井くんの説明を遮るように、再びドアが開く。

そのとたん、教室が一気に静かになった。

みんな唖然として、入ってきた"2人"を見ている。

「あ、そういうことね…」

事情を知っている私たちは思わず苦笑い。

「どうした…の? みんな」

有沢くんが驚いたように立ち止まり…その隣の麗華も、戸惑ったように瞳を揺らした。

「…行きましょう」

呟くように麗華が言い、有沢くんの制服をクイと引っ張る。その仕草に、クラスメートも何があったのかわかったみたい。

「お前ら、付き合いだしたの?」

「マジで!? 宮崎狙ってたんですけどぉ〜!」

「えぇー、麗華ちゃんおめでとう!」

「あ…ありがとう」

そこからは質問の嵐。学年一の美少女と天才ピアニストのカップルだから、みんな興味津々だ。

「アリー、お前いつ告ったのよ?」

「……秘密にしとく」

うん、有沢くんらしい答え。

あっという間に囲まれる2人を一番外側から眺めていると、トントンと肩を叩かれた。

「…返事、待ってる」

耳元で囁かれた声に、思わず肩が小さく跳ねる。

「高野くん、あのね」

そう言って振り向いたとき合った目に強い力を感じた。私は用意していた言葉を胸のなかで反芻し、息を吸った。

「放課後、屋上に来て」

彼は表情を変えないまま、「わかった」とだけ答えた。

 

 

 

_ガチャン

ドアを開けたとたん、地上より強い風が私を出迎えた。

ここへ来るのはいつ以来だろう。

入学式の日、夏菜子と麗華と3人で上って、中学とはまるで違う景色に歓声をあげて…あれ以来だ。屋上が立入禁止なんて知らなくて、先生に気づかれて怒られたっけ。

そのフェンスに、高野くんが寄りかかっていた。

「ごめん、待った?」

「全然」

高野くんの前に立ち、私は深く息を吸った。

「返事、なんだけど」

告白を断るのは苦しい。

彼は学年で一番モテる男の子なのだ。そんな人が、私を好きだと言ってくれた。

幸せ者だった。普通なら断らない。

…けれど。

「気持ちは、嬉しい。だけど…ごめんなさい」

精一杯に言葉を選んだ私に、高野くんはフッと短く息を漏らした。

「そっか…悪かったな。あんなこと言って」

「うぅん。…でも、ありがとう」

そう言うと、彼は照れ隠しみたいに頭を掻いた。

「ちょっとショックだけど…うん、まぁ、水瀬の気持ちが聞けて良かったよ」

「…うん」

「俺、部活だから戻るわ」

高野くんは、いい人だった。友達として、尊敬できるくらいに。

屋上にひとり取り残された私。

オレンジ色の空を見上げて、龍我くんを想った。

私やっぱり、あなたが好きなんだ。

 

 

 

…?side……

 

 

 

「話があるんだけど」

校舎裏、"彼"を呼び出した。

「…なに?」

彼は形の良い眉をクイッとあげて続きを促した。

「見ちゃった…てか、聞いちゃったんだよね。図書館の書庫で……」

その事実を告げると、アーモンド形の目が見開かれる。

「それ、本当?」

"あの人"と同じように綺麗に整った顔は何を考えているのか、何を思っているのか、…表情の変化がない。つくづく、ミステリアスな人だと思う。

去り際、彼は言った。

「…このこと、誰にも言わないで」

わかってるよ…そんなこと。

 


夏の終わり。

恋の季節に出遅れた、もの寂しいセミの鳴き声が、やけに静かな空間に響いていた。