【瞬 第3話 距離②】
…真梨side……
試験勉強をしていると、ドタドタと騒がしい足音が階段を駆け上がってきた。
「お姉ちゃん!」
ガチャッと開かれるドア。何事かと振り向くと、制服姿の沙耶がスクバも下ろさずに立っていた。その手に持つ携帯のチャット画面はまだ明るい。
「お姉ちゃん! 少クラ行くってホント!? 夏菜子ちゃんから聞いた!」
「え…っ、あ、うん、ホント」
「えーっ! ずるい! なんでー?」
夏菜子、言っちゃったのね…まぁ、いずれ言わなければならないことだったけれど。
「もーなんでこの日に水泳大会あんの! 申し込みすらできなかったじゃん! 休もうかな! 休んでいい!? ねぇお姉ちゃん!」
なんとか宥めようと口を開きかけると、沙耶はブンッと顔を上げた。
「いやッそんな訳にはいかない…! ポンコツ姉にはジャニオタの蛇道を通ってもらわねば! そのまま沼落ちしろ! とにかく! 20日までにウチワ作って! あとキンブレ…は私の貸すか。あ、でもウチワ那須のしかないな。お姉ちゃんも那須担でいいよね?」
雑に決めると、テンションの高い沙耶はそのまま部屋を出ていってしまった。
そっか…そんなに大事なことなんだ。
番協の世界、甘く見てた…
そのときなぜだろう、予感がした。
もし、は簡単に覆される。ありえないと思っていたことが現実になることは、最近の私がよく知っている。
この少クラで、何かあったらどうしよう。
私の心はいつのまにか、佐藤龍我に支配されていたのだ。
…龍我side……
_キーンコーンカーンコーン
試験終了を知らせるチャイムが鳴り、答案用紙が前に集められていく。長かったテスト期間が、今日でやっと終わった。
張っていた気が緩み、クラスがにわかに騒ぎだすなか、金指と俺は気が抜けなかった。
「…佐藤と金指、時間だぞ」
担任がそれだけ告げて、教室を出ていく。
今日は5月20日。月に一度の少クラ収録日。
急いで下校準備をしていると、
「がんばれよ」
耳元でボソッと、神木が言った。
「おぅ」
「あっ今日ライブなの?」
橘が大きな目でこちらを見る。頷くと、「がんばってねー」と軽く返された。
「じゃ、さよなら」
そそくさと教室を後にして、階段を得意の2段飛ばしで駆け下りる。菅野さんの車はきっともう校門前に停まっていることだろう。
直前のリハに間に合うかどうか。俺はそれだけを考えていた。
…真梨side……
チャイムが鳴ると同時に、夏菜子が私の席にとんできた。
「まーりっ! 早く帰るよ!」
今日は念願の少クラ収録日というだけあって、いつもより増してテンションが高い。
そして、
「行きましょうか」
麗華も準備万端だ。言葉はおしとやかだけど、ちょっと浮き足立ってるのがわかる。
「待って…早くない?」
「なーに言ってんの。早いに越したことはないでしょー。渋谷でお昼ご飯食べて開演まで時間潰そ!」
「あぁ…なるほどね。…で、その荷物はなに」
私は、夏菜子のやたら大きい手提げに目をやった。
「これは、ウチワとかキンブレとか…ここでは出せないけど」
中身を覗いてみると、どっさりグッズが入っていた。しかもよく見ると、全部3つずつ。これってもしかして…
「ねぇ、私もこれ持つの?」
「当たり前でしょ! 沙耶ちゃんに聞いて、那須のやつ集めてきたから、今日はなすかなりゅ担で参戦します!」
手作りのウチワにはなんだかキラキラした文言が書かれている。すごい手の懲りようだ。遠目で見ても誰担かわかるし、ファンサしてくれるかもしれないアイテムだから、と沙耶も言っていたっけ。
正直、よくそこまで…と思う。好きなメンバーにファンサしてもらえる確率なんて、相当低いんだろう。しかも、その目はすぐに逸らされてしまう。「愛してるよ」と平等に叫ぶために。
それでも、ファンはその一瞬に賭けるのだ。ある人は、応援してるよと伝えるため。またある人は、その記憶の片隅にできるだけ長くいるために。
アイドルとファンの関係は不思議だ。私にはよくわからない。
数時間後にこれ持っている自分を想像してみる。柄にないことをするのはわかっているので、なんだか少し怖いような気がした。
…龍我side……
時計を見ると、午後6時半を指していた。収録開始まであと30分。この30分は、ほどよく緊張を高めていける時間でもある。
「ちょっとー誰かワックス貸して」
「待って今使ってるから、…はい」
「ねぇ! 俺のバトンどこ行った?」
「なんかソファーに刺さってるけど」
「あ、ごめんトス練で借りてた」
「腰のサクラ吹雪配るからみんな集まって」
エアーベッドが雑多に散らばった"美 少年"の楽屋。衣装とヘアセットと同時に、準備運動したり振り付けの最終確認をしたりと、ライブ直前はメンバーそれぞれ自由に過ごしている。
あと15分。
「そろそろバック行ってくださーい」
スタッフさんの声に立ち上がる。
…よし、それじゃ頑張りますか。
…真梨side……
何もかもが初めての経験だった。
ステージから続々と登場するジャニーズのメンバー。その人数の多さにまず驚いたし、圧倒的な観覧の女の子たちの悲鳴に気圧されそうになった。これだけの人を虜にしてしまうんだ。憧れの対象になるのも、手の届かない存在になるのも、すごく納得できた。
そして…中盤に差し掛かる頃。
いつものように、HiHi Jetsの髙橋くんが曲を振った…"FIRE STORM"。
センターの彼が、振り向いた。
その瞬間、眉間に鋭い光が当たったような気がした。
もうずっと…私の視線は彼だけを追い続けていた。
滑稽にも水色のキンブレ、違う名前の書かれたウチワを手に持ちながら、ただひたすら彼だけを。
目を逸らす暇も与えないほど、身にまとうオーラに惹きつけられる。
『水瀬さん…だよね?』
『初めて名前呼んでくれた』
『ごめんね、引きとめて』
そのとき、図書館で会ったときは感じ得なかったことが、胸の奥に芽吹くようにそっと顔を出した。
彼はきっと、誇りを持ってこの仕事をしている。そして何より、この仕事が大好きなんだって。
佐藤龍我くん。
彼はそれくらい、私に深く印象を残した人だった。