【瞬 第3話 距離③】
…龍我side……
家に帰り着いたのは、午後10時を過ぎた頃だった。まだ明るいリビングではお笑い番組が点けられていて、弟が大声で爆笑している。
「ただいま」
「おー、おかえり」
「あら、龍我。おかえり」
高校生だし、仕事が仕事なので、このくらい遅くなっても母親は何も言わない。キッチンで明日の朝食の下ごしらえをしながら、声だけ出迎えてくれた。
「お疲れ様。お風呂沸いてるから入っちゃいなさい」
「うん」
俺はそのまま風呂場に直行。
「うはぁ〜!!」
さっと体を洗ってから湯船に飛び込むと、思わずため息が漏れた。
無事に少クラの収録を終えたから、またひと段落ついた。
バトンパフォーマンスは成功した。"FIRE STORM"の最初のアップはどう録れてるんだろう。花びらを出すのが遅かったのが悔しいな。
そんな反省をしつつ、ギリギリまで身を沈めて、生首状態になる。立ち上る湯気が頬をなで、天然ミストのできあがり。ほーっと息をつく。
中間テストも終わったし、しばらくは仕事に明け暮れる日々が続きそうだ。
…真梨side……
恋をしたのか、と訊かれたら、私はなんと答えるのだろう。
「真梨ちゃん、これよろしく」
サキ先生から配架作業を頼まれるとき、私の胸はいつも小さく跳ねた。特に、ここ最近。
少クラの収録観覧に行ってから、2週間が過ぎていた。
図書館にいると、彼との出会いを思い出す。荷台を押して歩きながら、また会えないかな、と思うことが増えた。
もう二度と会いたくない。
ライブ前、あんなに嫌だった彼との対面だったのに。
人の感情とは、たったひとつの出来事で、こんなにも簡単に変わるものなのだろうか。
また会って…今度はちゃんと話がしたい。
"目を合わせないで"
素直に受け止めたはずのマネージャーさんの言葉にも、今は納得ができなくなっていた。
本を戻すとき、あのときみたいな忙しい足音が聞こえないか耳を澄ませてみたり。
勉強に疲れて寝落ちしていないかなって、自習室を覗いてみたり。
そういうとき、彼は決して現れなかった。
けれど、神様は知っていた。私たちが、いつでも"偶然"だってことを。
だから、あの日も……
きっと偶然に、私たちの恋は始まった。
…龍我side……
その日、俺は1人で図書館にやってきた。金指はアクロバットの習い事とかで、先に帰ってしまったからだ。
授業に追いつくために、少しでも内容を理解しよう。苦手な数学の問題集を解こうと自習室に入ろうとしたとき、そのドアの小窓から見えた風景が、俺の右手を止めた。
初夏の陽気漂う夕方の自習室。日の光が射す窓際の席で、文庫本を読みふける1人の女子生徒。見覚えのある横顔。
彼女は、小窓をフレームとした1枚の絵画のように、綺麗に収まっていた。
あぁ…また、出会えた。
そのとき不思議と、安心感を感じた。気づいたときには、ドアを開けて、呼びかけていた。
「水瀬さん」
彼女は首をゆっくりとこちらに傾けた。その顔は、まるで俺が来るのを知っていたかのように、全く驚いていない。
「…佐藤くん」
読んでいた文庫本を閉じて、彼女は立ち上がった。その行動には、焦りも怯えも拒絶もなかった。
俺が近づいて手を差し出しても、彼女は逃げなかった。
「…俺、佐藤龍我。知ってると思うけど」
彼女は俺の手を握り返した。手のひらから温かさが伝わった。
「…水瀬真梨です。よろしくね」
そう答えて、天使みたいな笑みを浮かべた。
彼女は今日、図書当番の日ではなかったらしく、たまたまここに来ていたということだった。
「じゃあ、ほんとに偶然だったんだ」
そう言うと、
「うん、ほんとに…」
彼女は呟くように言った。
2人、出会うのは4度目。偶然にしては出来すぎた"偶然"の重なり。
「…あ、隣で勉強してもいい?」
「どうぞ」
数学の問題集を広げると、彼女はまた文庫本に目を戻した。
しかし、いざ問題に取り掛かろうとしても…隣の存在が気になって、全く頭が働かない。
俺が目だけをそっと動かすと、視線に気づいたのか、彼女は本から顔を上げて、
「……何か?」
一言、そう訊いた。
「いや…ここの問題がわからなくて」
慌ててその場しのぎの言い訳をすると、彼女はすっとイスを引いて俺に近づいた。また、あの花の香りがふわりと漂う。
「どの問題?」
「あ…、ここ」
「これは……」
垂らした髪の毛を耳にかけ、細い指で問題文をなぞる。その仕草ばかりが気になって、解説は全く耳に入らなかった。
「…それで、この答えが出る。わかった?」
「あ、う、うん、わかった」
頷いて彼女に顔を向けると…近い。顔がものすごく近い。
そして、彼女も俺を見ていた。
「話、聞いてなかったでしょ?」
「…え」
彼女は俺の顔を覗き込んだ。
時間が止まったように、2人は見つめあう。
_キーンコーンカーンコーン
空気を断ち切るように、最終下校のチャイムが鳴った。
彼女は目を瞬かせ、そっと顔を上げた。
「もう、帰らなくちゃね」
空気が動き出す。イスを戻し、文庫本をしまう。
夕日に照らされた自習室で、俺はさっきからずっと考えていたことを口に出した。
「一緒に…帰る?」
彼女は一瞬だけふっと動きを止めた。そして、かすかに頷いてくれた。
夢を、見ていたのかもしれない。
現実に引き戻されたとき、俺は重大なことに気づいた。
「…佐藤くん」
彼女もそのことに気づいたらしかった。
「まだ日が出てるから、その…目立ってしまうと、思う」
男女2人が一緒に帰宅すれば、どんな関係かぐらいなんとなく想像できるようなものだ。しかも、佐藤龍我と女子高生。誰かに見られたら、恰好のネタになる。
すぐ思いつくのは変装。けれど、いつもは噂される心配のない金指と帰っていた俺は、マスクもメガネもあいにく持ち合わせていなかった。
「図書当番の日なら、最終下校を過ぎても学校に残れるんだけど…今日はもう、帰らなくちゃね」
彼女も、下を向いた。
「今日は、無理かな…」
そう言って、顔を上げて諦めたように微笑む。
「…じゃあ」
彼女はあっさりと別れを告げて、俺の横を通り過ぎようとする。
「ねぇ」
俺は厚かましい人間だった。彼女のなかに少しでも"自分"を残しておきたくて、彼女とまた会いたくて…
「LINE交換しない?」
「……え」
彼女は驚いたように立ち止まった。
「いい、けど…」
俺たちはお互いの携帯を取り出して、無言のままLINEを交換した。俺の携帯に"水瀬真梨"の名前が登録される。
このとき初めて、俺は彼女をまともに認識できたのかもしれなかった。
図書館で出会って、一瞬交わした会話。
そよ風のようにすれ違った、収録の日。
黄昏時、ひとり静かにページを捲る姿。
淡い記憶は陽炎のように揺らめいて、すぐに消えてなくなってしまいそうで。
だから、唯一残った花の香りを、俺は忘れなかった。
…忘れられなかった。
…真梨side……
私の携帯に"彼"が現れたとき、私は一瞬奇妙な感覚を覚えた。
それは、何万人もの女の子を前に歌って踊るアイドルではなく、普通の男の子を錯覚させた。
「…ありがとう」
彼はそう言って、そのまま続けた。
「今度は、一緒に帰ろう」
このとき、私はさらに戸惑った。
おそらくこんな感情は初めてで…体が疼くような、くすぐったい気持ちが広がった。
「…じゃあ、また」
「うん、じゃあね」
私たちはそこで別れた。
"今度は、一緒に帰ろう"
彼は、いったいどういうつもりなんだろう。何の理由があって、私を誘ったんだろう。
考えれば考えるほど膨らむのは、もしかして…という淡い期待。けれどそこまで思うとすぐに、胸の内に何か這っているような気持ち悪さが襲った。
何を考えてるんだ、私は。
彼にとって、私は友だちのひとり。
そう割り切ることもできる。
ただ、LINEを交換しただけの、友だち。
いや、友だち…とすら言えないかもしれない。
なんたって、義理で連絡先を交換しそうな世界に、彼は住んでいる。私なんて、彼の携帯のなかで、大勢の華やかな名前に埋もれて忘れ去られてしまいそうだ。
いずれ忘れ去られるなら…最初から期待しないほうがいい。
だから私は、自分から彼にLINEすることを避けた。
結末が、怖かったから。