【瞬 第4話 恋①】
…龍我side……
休み時間、何とはなしに気になって携帯を開いた俺に、金指は不思議そうに尋ねた。
「なんかあったの?」
「ん、え、なんで」
「だって朝から携帯ばっか見てる。ていうか最近見すぎ。ISLAND TVでどんだけ携帯いじってる姿撮られてると思ってんの」
金指は観察力があるうえに鋭いのだ。なんだか嫌味っぽく言われたので思わずドキッとしたけれど、
「妹さん?」
そう訊かれてほっとする。
「そーだよ」
俺の妹は、まだ赤ちゃんの頃に病気を患ったことがある。もう完治しているが、金指は急な体調不良とかを心配したのだろう。
「最近、ちょっと風邪っぽくてさ」
真実は、昨日おもいっきり友だちと遊んでたけどな。呑気な妹だ。
「え、大丈夫?」
「うーん、微妙。けどまぁ、あんま心配ないと思う」
心配されるまでもない。妹は超が付くほど元気だ。
「そ。なら良かった」
金指が前に向き直ったので、俺は再び携帯に目を戻した。未読、なし。水瀬さんからのLINEは、来ていなかった。
放課後、俺はいつものように、金指と自習室を訪れた。その間、本を借りるという名目で自習室を抜け出した。足が向いた先は、一般コース生徒が利用する東端カウンターに一番近い本棚。水瀬さんはいるだろうか。首だけ伸ばして伺い見る。…と、その視界が突然遮られた。
「佐藤くん?」
「…橘」
目の前に立っていたのは、同じトレイトコース2年の橘菜摘。芸名は"立花なつみ"。ついこの間、民放ドラマ初主演を果たし、人気急上昇中の女優兼ティーン雑誌のモデル。
「どうしたの、こんなところで」
「いや、本を探してるんだよ」
「あんた本なんか読むっけ?」
「…少しは読む」
「それは読んでない人の言い方だよ」
「うるさいなー。お前こそ何しにここ来たんだよ?」
「私は…ただ…」
橘は途端に口ごもった。
「用がないなら話しかけないでくれない? ここ教室じゃないから」
教室外では基本、異性同士すれ違ってもお互い無視。トレイトコース生徒の暗黙のルールだ。
「…ごめん」
悪いと思ったのか、橘はすぐにその場を去った。
そうだ。今ここに来たって、水瀬さんに話しかけることはできないのだ。
彼女が俺のことをどう思っているのかも、まだわからない。だから確かめたい。
このとき、自分の気持ちすらわかっていなかった俺は、単純にそのことしか頭になかった。
彼女は俺にとって、特別な存在になりつつあった……
…真梨side……
携帯が鳴った。
送信者名を見て、私は驚いた。
佐藤龍我。
ほんとに、来た…?
勇気を親指にこめて、LINEを開くと、
『図書当番のある日にちを教えて』
それだけの文面だった。
本当に、一緒に帰るつもりなんだ……
『毎週土曜日です』
そっけなさすぎたかな、と思ったけれど、そのまま送った。あれこれ考えて変な文面になってしまうよりはマシだ。
私は、佐藤くんとの距離を、いまだ掴みかねていた。
…龍我side……
土曜日。
最終下校時間まで勉強してから、俺はあの日と同じように、
「本返すの忘れた」
と金指に言った。
「え、また忘れたの」
「ごめん、先に帰ってて」
我ながらうまくできた理由をつけて、金指をひとりで帰らせてから、俺は水瀬さんとの待ち合わせ場所に向かった。
1階の階段下。ちょうど、一般コースとトレイトコースの境目にあたるこの階段は、"東城の壁"と同じ役割を果たしている。
その狭い三角のスペースに身を潜めて、水瀬さんを待った。
夕日が沈み、薄暗い階段下。もうほとんどの生徒が帰った頃。
ようやく、彼女は現れた。
「…お待たせ」
お互いの顔がなんとか見えるくらいの暗さで、微かな花の香りが彼女を確信ささた。
「帰ろっか」
「うん」
俺たちは、並んで歩き出した。
それから何を話したんだったか、とりとめのない会話だったような気もするけど、なにせ俺は頭の片隅でずっと考えていたことがあった。
水瀬さんは、俺のことをどう思っているのか。
けれど、それとなく探りを入れることさえも躊躇われた。彼女には、他人を一定以上踏み込ませないような雰囲気がある。
まだ警戒しているのか。
優しい香りを漂わせているのに、話す言葉の端々に強い芯が見え隠れしている。ふわふわと宙を舞うような、ただ柔らかいだけの人ではない。
だから逆に、掴み所がなかったし、もっと知りたいと思った。
それはまだ興味の段階だったかもしれないけれど、俺は間違いなく、彼女に惹かれていた。
…真梨side……
やがて、私たちは、T字路に突き当たった。
「じゃあ俺は、こっちだから」
街灯に照らされた道で向き合う。
私よりだいぶ身長の高い彼は、
「今日は、ありがとう」
そう言って、右に曲がる。
「…佐藤くん」
「龍我だよ」
すぐ返ってきた答えに、なんで呼びかけたのかもすっかり忘れて、私は面食らった。
追いうちをかけるように、彼は笑って告げた。
「龍我って呼んで。…真梨」
…龍我side……
「…佐藤くん」
そう呼びかけた声が、あまりにも可愛かったから。
「龍我って呼んで。…真梨」
無意識のうちに、口をついて出てきた言葉に、ハッとした。
振り返ると、彼女の瞳が揺れている。戸惑ったように視線をさまよわせて、うつむいてしまった。
「…ごめん」
「う、うぅん、びっくりしただけ…」
しばらくの沈黙。
そして、彼女の口から、か細い声がもれる。
「…りゅう、が、くん」
耳をくすぐるような声が、次の瞬間、早口に変わった。
「こちらこそ、ありがとう」
そう残して、彼女は足早に過ぎ去っていった。
…真梨side……
顔が熱を持ったように火照っている。夜風はまったく冷ましてくれず、頭のなかで何度も繰り返される言葉が忘れられない。
『龍我って呼んで。…真梨』
私の名前を、呼んだ。
これは、彼のいる華やかな世界では普通のことなんだろうか。
ますますわからない。
あなたがどういうつもりなのか、わからないよ……
男の子に慣れていないだけ? そんなんじゃない。
小学校、中学、高校と進学してきて、周りに男子がいなかったことはない。普通に話せるし。
恋愛下手? いや、そんなことでもない。
私の初恋は幼稚園のとき。同じクラスの男の子が好きだった。
小学校では、仲のいい男の子はいた。小学生だから付き合うまではいかなかったけど、しょっちゅう遊んで、手を繋いだり、バレンタインにチョコをあげたりした。
中学生。初めて告白された。だんだんそういうことがわかってくる年頃で、彼には恋愛感情を抱いていなかったから、"ごめんなさい"と断った。
思い返せば私は、はっきりとした"恋愛"をしたことがなかった。
そして…今。
私の気持ちは、胸の奥でふるふると震えていた。
龍我くん。
遠く離れてる。そんなのわかってる。
わかってて…好きになった。
世界で一番難しい恋に、私は気づいてしまったのだ。
6月も下旬に差しかかる頃。
最近は、毎週土曜日が、ちょっとした楽しみになっていた。
龍我くんと初めて一緒に帰った日の夜遅く、彼から再びLINEが来た。
『また、来週』
サザエさんのエンディングみたいな文面で、私は思わず笑ってしまったけれど。
何はともあれ、その次の土曜日も一緒に帰ることができた。前回よりもたくさん話して、"龍我くん"呼びにもだいぶ慣れた。
彼はいつも笑っていた。話すことは学校のことばかり…彼は一切、仕事の話をしなかった。私からもその話題を持ち出さなかった。はっきりとした境界線を、感じたくなかったから。話しているだけでは、彼は普通の男の子で、私も変に気遣う必要がなかった。
そして彼は、冗談でもその場のノリでも、決して私に触ることはしなかった。
…友達だから。
片想いのまま終わっても、よかった。
この関係が、心地よいとすら思えた……このときは。
…龍我side……
真梨と帰る土曜日が、またやってきた。
その日、俺は前日LINEで言われた通り、放課後すぐ図書館を訪れて、本棚の影で真梨を待った。金指は私用があるからと先に帰ってしまっていた。
真梨はすぐ現れた。図書館に俺以外誰もいないことを確認し、足早にやってきた。
「今日はどうしたの?」
そう訊くと、
「しょっちゅうここに来てるの、ばれたらまずいでしょ?」
真梨は小声で言った。
「だから、私を待ってるときは、書庫にいて」
彼女は、図書館の一番奥にある小部屋を指差した。
「ただ、電気は点けないでね」
そう何度も念を押す。普段あまり使われない部屋なので、長時間電気が点いていると怪しまれるという。
狭くて古くさいイメージのある書庫。しかし、いざ入ってみると、全く違う雰囲気で驚いた。
小窓から射し込む蜜色の光。本棚に所狭しと並べられた古本の匂いが鼻をついた。ずっと昔から変わらずそこに置かれているような、優しい匂いだった。
その間をすり抜けると、ぽっかりと空いた空間に小さな円形のテーブルがひとつ、これもまた古い絵画のように書庫の空気に溶け込んでいた。
「静かで、いいところでしょ」
真梨は少し得意気に言った。
「秘密基地みたいだな」
呟くと、彼女は俺の荷物をその机に置いて、うん、と楽しげに呟いた。
「これからは、ここで待ち合わせしよう」
それからは、書庫が、俺たちの待ち合わせ場所になった。
変化のない日常とは、続かないもので。
"きっかけ"は、いつか必ずやってくる。
高校2年生、君と出会ったあの季節は、思いもしない未来への幕開けだった。