【瞬 第10話 別れ②】
…志田side……
「じゃあ…言ったんだな、先生に」
ケイは静かな目で宙を見つめていた。
「うん…橘さんが、話してくれて」
彼女は一度、秘密にすると誓った恋を、大きな決意のうえで、私に話してくれたのだ。
それは修学旅行前、ケイに渡されたメモの最後の文と寸分違わない告白だった。
『あいつが好きなのは、たぶん佐藤だ』
ケイが思った通り、橘さんは片想いを認めた。好きになった経緯と、…隠した理由。それは、ケイも私も予想し得なかった理由だった。
『校則があったからじゃない』
"恋愛禁止"だから想いを隠したのかと訊いた私に、橘さんははっきりとそう言い切ったのだ。
『付き合ってるの。一般コースの子と』
だから他言無用だったのだと。
橘さんの本音と、真実を聞いたあの日。
廊下を歩きながら、考えることはひとつだった。
学級委員として何ができるか。
橘さんも佐藤も、大切なクラスメートだ。
このまま私も隠したとして……心に重荷を抱えたまま隠したとして……それは、彼らにとって良い結末になるのだろうか。
誰かに嗅ぎ付けられる前に、どうにか収まる方法はないのか。
『水瀬真梨、さん』
先ほど聞いたばかりの彼女の名前を、小さく呟く。
どんな女の子なんだろう……
まだ見もしない彼女を思い浮かべながら、私は目の前にぼんやりと道が開けていくのを感じた。
「…それで、決めたのか」
事の顛末を話すと、ケイは深く溜息をついた。
「終わった…な」
「うん…終わった」
微かにホコリの舞う、静かなこの部屋は、2人でいつも話し合い、物事を決める大切な場所だった。
そして今またひとつ導き出した答えを、私は幼馴染に…一番頼れる、心から信頼している彼に、問いかけた。
ねぇ、ケイ。
私の行動は正しかったの?
「あの2人は…」
さぁ、分からないよ、俺にも。
「そうなるべくして、そうなる運命だったんだよ」
…夏菜子side……
12月17日。
2学期の期末テストが終了して3日。本来なら解放感に満ちた試験休み期間を過ごしていたはずのあたしは、訳あって誰もいない学校にひとり呼び出されていた。
「はぁ…」
思わず溜息が漏れる。
その理由は、持っているこのダンボールの重さだった。中身は、高3からの文理選択用紙と分厚い進路冊子がクラス全員分。
どうやら、うちのクラスに大幅な進路修正をしなければならなくなった生徒がいたらしい。重要な書類だから個別に提出することができなくて、うちのクラスだけ終業式直前の今日まで期限を延ばしてもらったのだ。
そして、これを最後にまとめて提出するのは、学級委員の仕事だった。
職員室に向かう途中、しんと冷え込んだ廊下の空気に、手はかじかむのを通り越して固まってしまっている。
もう、ほんとに…誰よ。大幅な進路修正って。いい迷惑だっつうの。
心のなかでぶつくさ言いながら歩いていると、不意に、ひゅうと吹き込む風。こんな日になぜ窓が開いているのか。思わず首を縮こませたとき、視界の隅で何かがひらりと揺れた。
学年掲示板。試験休み中は全ての掲示物が剥がされているはずのそこに、1枚のプリントが寂しげに貼られていた。
「え……」
最初それは白紙に見えた。
書かれていることが、あまりにも短くて、唐突な文章だったから。
"2年A組 水瀬真梨を退学処分とする"
その一文だけだった。
たった一文の告知に、あたしは全身かたまったまま、何も考えられずにいた。
ロボットみたいに固定された動きで、あたしは無意識のうちに、しゃがみこんでダンボールを開けていた。
水瀬真梨、水瀬真梨……
あった。
そっと引っ張り出した真梨の文理選択用紙は、文系の欄にされたチェックの上に、赤ペンで二重線が引かれていた。
『急遽、進路変更した生徒がいたのよ。だから、試験休み中にまとめて提出頼むわね』
テスト最終日、学級委員のあたしに担任の先生はそう言った。
…まさか、真梨?
次の瞬間、あたしは駆け出していた。ダンボールを抱え上げて、廊下を一気に駆け抜けた。
_ガラガラッ
職員室の扉を開き、目指す姿に直進した。
「あら、佐伯さんお疲れ様。ありが…」
「どういうことですか」
「え?」
「真梨のこと。なんで退学するんですか!?」
突然の質問に先生は一瞬うろたえたように瞳を回したが、すぐにあたしを正面から見据えた。目の奥の奥まで覗かれているような強い視線。もしかして、あたしが知っているかどうか見極めようとしているのだろうか。真梨の退学ときいて思い当たる節はただひとつ、龍我との関係だ。
「…重大な校則違反です」
先生から放たれたのは、淡々とした一言だった。
やっぱり、あのことだ。
2人の関係がバレたんだ。
頭を強く殴られているような衝撃が広がった。
「それで、真梨は…?」
「実は、昨日既に退学届が受理されてね…もう学校には来ないわよ。みんなとちゃんとしたお別れができなくて、彼女も寂しがっていたわ。素晴らしい生徒だったのに…残念ね」
まるで台本を読むように、先生は話した。一見、悲しそうな表情。けれどその裏に、"担任"としての本心が透けて見えた。
…よくも裏切ってくれたわね。
呆気にとられて何も言えない。無言の時間が流れるなか、彼女の失望が見えた。
真梨はいつも完璧だった。入学当初から成績は不動のトップ。品行方正、まさに東城高校の模範的生徒。
学校とは残酷だ。龍我との関係は、真梨の評価を地の底まで貶めた。校則違反というレッテルを貼りつけて、厄介者の彼女を追い出したのだ。
「…ひどすぎる……」
嗚咽まじりにどうにか絞りだしたのは、負け惜しみの言葉だった。
学校という大きな力に抗おうと、あたしの口は開いていた。
「なんで…先生! 他に手段はなかったんですか!? なにも退学までさせることないじゃないですか!? なんで、なん…」
なおも続けようとするあたしは、先生を見て思わず口をつぐんだ。
氷のように…冷たい目。
一瞬怯んだあたしの腕をとり、職員室の外へ連れ出す。他の先生の目がない廊下で、
「知っていたのね?」
尋問をするかのように、一言そう訊いてきた。
「水瀬さんと…彼の、関係を、あなたも知っていたのね?」
頷くこともせず、あたしは先生を真正面から見続けていた。認めたくない。
「でも、彼女からは何も訊かなかったのね?」
質問の意図がわからず首を傾げると、先生は「だからか……」と頷いた。勝手に自己完結しないでよ。
またも抗議したい気持ちを抑えながら先生を見る。
「2週間前のことよ」
始まりは、とある生徒からの密告だった。事情を知った先生たちが真梨の処分を決めるのに、そう時間はかからなかった。
そして、退学届が手渡された。まっさらなその用紙は、最後通告だった。
真梨に与えられた猶予は2週間しかなかった。2週間…考え続け、真梨は退学することを決めたのだという。
この2週間の真梨を思い返す。
真剣にテスト勉強に取り組んでいる姿。
龍我と楽しそうに笑っている姿。
知らなかった。
あたし、何も知らなかった。真梨の気持ちも何も。
ねぇ…どうして。
どうして何も言ってくれなかったの?
混乱する気持ちで、思いついたことはただひとつだった。あたしは携帯を取り出し、彼に電話をかけた。
…龍我side……
12月17日。
番組収録の楽屋にて、事前に渡された台本を開く。
「うーわ、そうそうたるメンバーだな……」
1人きりの楽屋で思わず溜息が漏れた。
大物タレントが司会の人気番組に、金指と出させてもらえることになったのだ。
他の出演者も"今話題の◯◯"とキャッチコピーが付くような芸能人ばかり。完全アウェイな感じがするけれど、ここは"美 少年"を売り出すチャンスと考えたマネージャー菅野さんがオファーを受けたらしい。
へー、あの子役か。あ、昨日テレビで見た芸人さんだ。え、てか、橘もいるじゃん……あいつすごいな。
橘といえば、いつだったか図書館で冷たい態度を取ってしまったことを思い出す。別に悪気があった訳ではなく、ただ真梨のことで頭がいっぱいだった。今更ながら、悪かったな、と思う。
_ガチャ
「龍我」
楽屋のドアが開き、金指が入ってきた。
「あれ、飲み物買いに行ったんじゃないの?」
「え、あ、うぅん…」
様子がおかしい。
"誕生日なんだから飲み物奢ってよ"
"それは無理〜"
みたいな軽いやり取りを想像してたのに…
「龍我、あのさ」
やけにかしこまって隣に座る。
「落ち着いて聞いてほしい」
金指は言葉を選ぶように、ゆっくり話しだした。
「…真梨ちゃんが……」
それはあまりにも突然のことだった。
その後のことを、俺はよく憶えていない。収録開始の呼び出しに来た菅野さんは、ひどい泣き顔の俺を見てすぐにメイクさんを呼び出し、濃いメイクを施した。深い事情を聞かないまま。
カメラを前にして、貼りつけた笑顔をどうにか保ちつつ収録に臨む。
笑顔とは不思議なもので…嘘だとしても、場の雰囲気が明るければ笑えるんだな…と思った。
「お疲れ様でしたー」
そして、NGを出さずになんとか終了し、静かな楽屋に戻ったとたん…ほっと安堵の溜息をついたとたん、涙が堰を切って溢れ出した。
「龍我……」
金指は何も言わずに傍にいてくれた。
「ちょっと、あんたたちどうしたの…」
遅れてやってきた菅野さんに、どう説明したらいいのかわからず、情けなく顔が歪む。
「一世、ちょっと外に出てなさい」
「…え」
「いいから外に出なさい」
菅野さんの言葉に、「はい」と答えた金指が出ていくと、楽屋は菅野さんと俺の2人だけになった。
「…龍我」
優しい声に、ますます熱いものが込み上げる。
「菅野さん、俺、俺…」
「もういいわ。わかってるから。何も言わなくていい」
俺は驚いて菅野さんを見つめた。
「学校から電話があったから。あなたと…水瀬さんのこと」
決壊した脳は、ただ、涙を流せる場所を探した。
12月17日。
17歳になった俺は…子供みたいに、菅野さんにすがりついた。
【瞬 第10話 別れ①】
…志田side……
_ガチャ
校長室の扉を開けると、目の前に泣き腫らした目の彼女が立っていた。
私は駆け寄って、彼女を抱きしめた。長身を屈めて泣く彼女の背中を、ぽんぽんと叩く。
「ありがとう。全部、話してくれて…」
後悔していますか。
そう訊かれたら、私はどう答えるのだろう。
していません。
きっとそう答えるのだろう。
小さなトゲが刺さるような痛みを感じながら、それでも私はそう答える。
実は私、密かに願っていた。
自分勝手かもしれないけど、願っていた。
2人がまたいつか出会うことを。
確証はないけれど、信じていたかった。
2人の…再会を。
…龍我side……
俺はぼんやりと空を見上げた。窓の外は、うっすらと白い世界。
雪だね…真梨。
ごめんね…真梨。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
俺は最後まで、彼氏らしいことは何ひとつしてやれなかった。
気づいたときには、真梨はもう…俺の前からいなくなっていた。
あれ以来、毎年初夢が降るたび、俺はあの日を思い出すんだ。
12月17日。俺の17歳の誕生日。
それは運命の日だった。
それまでの日々…何も知らない俺は、呆れるほど呑気で……
「ねぇ金指ぃ」
雑誌撮影のため出かけた先、スタッフさんのいないロケバス車中で休憩をとりながら、隣の席の金指に呼びかけると、「んー?」と間延びした声が返ってきた。
「どーしよっかなー」
あえて焦らすように言うと、やっとこちらに向けてくれた目。
「何が? …あ、誕プレか」
読み取り早っ!
「だいたい顔に出るもんね、龍我は」
ふふん、と勝ち誇ったような笑みに、俺は参って話し出す。
「いやさ、プレゼント買うとき一緒に来てくんないかなーって」
「別にいいけど…てか早くない? 真梨ちゃん誕生日クリスマスイブだよね? 今まだ11月だよ?」
「いーでしょ。こういうのは早いほうがいいのー」
「もうそれ自分の誕生日すら忘れる勢いじゃん…買わないからね誕プレ」
「え、ちょっと待ってそれはひどくない? 俺のぶんは買うべきでしょ」
「何が欲しいの? 具体的にどうぞ」
「なんか祝われてる気がしないんだけど…えっとね」
結局真梨への誕プレの話は進まないまま、再び撮影に呼ばれた。
「…いるよね」
「…いるね」
金指と目配せすること数回、俺はこっそり溜息をついた。
休日、同年代の子たちで溢れている都心の大通りは、恰好の"狩り場"だ。
ましてや普段から大した変装もしない俺たちは、まぁ見つかりやすい訳で…
数分前から後をつけられている感覚があって、盗撮もされている気がする。気分の良いものではない。
こんなんじゃガッツリ女の子向けのファンシーショップに入ることも憚られる…けど。
「臨機応変」
「そうだね」
家を一歩出たらアイドルを意識しろ。そう言ってたのは誰だったっけ。
ファンの子たちを巻くために路地裏を適当にぐるぐる回っていると、道路脇に狭い階段を見つけた。地下に続いている。何かのお店があるようで、パッと見では解読できない難しい英単語がつらつら並べられていた。
…潜るが勝ち。
こういうときは、オープンなお店より小さな隠れ家に逃げたほうがいい。
今度からちょっと変装するかな、でもしたところで意味ないか…
何はともあれ地元の人じゃないと知らなさそうなその店に、俺たちは足を踏み入れることにした。
おそるおそる地下に下りると、モスグリーンの扉に控えめな"OPEN"の看板が掛かっている。それ以外に得られる情報はない。
ラッキーだ。ここで時間をつぶそう。
_ガチャ
「いらっしゃいませ」
その途端、俺たちは小さな悲鳴をあげた。
6畳ほどの店内には、アンティークな雑貨が並んでいる。他にお客さんはいないようで、若い女の店員さんがひとり。彼女は奥のカウンターからちょこんと会釈した。
普段こういうお店には入らないからなんだか新鮮だ。金指なんて早くも目についたものを次々手に取って眺めてるし。
どれも一点物らしく、大人っぽいデザインから可愛らしいアクセサリーまで様々。これは新しい発見かもしれない。
「…で、真梨ちゃんには何買ったの?」
「ん、あー、これ」
差し出した紙袋を覗き込んだ金指は、「ほー」と嘆息。
「うん、まぁ…素敵な夜をお過ごしください」
「いや、素敵な夜とか…そんな、へへ」
「は? 何考えてんの? いかがわしい…」
目の前の金指がドン引いていた。そっちから振っておいてその反応はない。
「ほんと、龍我はわかりやすい」
「ねぇマジやめて」
アホみたいなことを言い合える仲間がいて、大好きな人がいて。それだけで良かった。
プレゼントを渡して喜ぶ真梨の顔を思い浮かべて、幸せな気持ちになって…
ひどいよな、神様は。
最後の最後まで、"幸せ者"だったのは…俺だけだったなんて。
「真梨」
期末テスト1週間前をきった、12月5日。書庫での時間。
難解な数式を解いて、くぁ、と背伸びしたついでに、隣で勉強している真梨に抱きついた。
「わっ、びっくりした…」
小さな声で、シャーペンを置いて俺の目を覗き込む。
「かまってくんモードなの?」
「そうかも」
「勉強しないと順位下がるよ」
照れ隠しなのか、一気にツンになる彼女に意地悪したい気になり、スタッと立ち上がる。
「ふーん、そういう態度とるなら俺もう帰っちゃおうかな…」
「え、あ、待って」
きゅっと掴まれる腕。上目遣いで今にも泣きそうで…余裕を見せようと笑いかけたそのとき、
「…っ」
___。
一瞬で離れていく唇を、その頭を引き寄せて、もう一度重ねた。
「……構ってほしいのは真梨のほうなんじゃない?」
「…うるさい……」
顔を真っ赤にして俯く。
真梨からキスしてくるのは珍しいなと思いながら見つめていると、ゆっくりと顔を上げた彼女は、俺の顔をまじまじと見た。
「龍我くんはかっこいいね…」
「…え、いきなりどーした」
突然の一言に、戸惑いながらも嬉しさが隠しきれない。
「私ね、ほんとに…龍我くんに出会えて、良かったと思ってるよ。…すごく幸せ」
いきなりそんなことを言うから、
「俺も幸せだよ」
なんて、照れるけどうまく言えたかな。
「うん…ありがとう」
このとき、彼女の涙目の意味を、俺は知らなかった。
真梨からキスしてくれたことが嬉しくて、ほどなくしてやってきた甘い時間に浸ってしまったのだから。
…夏菜子side……
なんで…よ。
目の前に貼り出された紙を見て、あたしは動けなくなった。
なんで……
ひとり呆然と立ち尽くす。周りには誰もいない。あたしは目の前だけを見る。
その無機質な文字に、地面に張りつくように固まっていた足が駆け出した。
窓の外では、ひらひらと雪が降り始めていた。
この日を忘れることはできない。
初雪の降った…12月17日のことだった。
【瞬 第9話 刹那③】
…真梨side……
11月。
冷たい風が頬をさし、私は首をすくめた。
そろそろマフラーデビューかななんて思いながら、澄み切った空を見上げた。
寒いけれど心地よい。目の覚めるような青空だった。
午前6時半、書庫。
「おはよう、龍我くん」
イスに座って、彼はいつもみたいに笑顔で迎えてくれた。
幾度、この場所で待ち合わせただろう。
それは最後の季節だった。
"いつも通り"を繰り返しながら、最後の日は、ある日突然訪れたのだ。
…龍我side……
"いつか終わる"ということに、明確な不安感もないまま過ごすというのは、さすがに無理なものだろう。
冬が深まるにつれて、俺は何かに追われているような焦燥を感じていた。それを、金指はすぐに見抜いた。
「まぁ、そうだろうね」
明らかに落ち着きがない俺に、彼は言った。
「いや、別に決心が揺らいでるってわけじゃないんだけどね…なんか、離れたくないっていうか……」
「誰だってそう思うよ」
英単語帳に目を落とす金指。"fragile"の文字が見える。もろい、壊れやすい。人間の心は、思いのほかそうなのだ。
「…したいことをするんだよ」
ボソッと金指は呟いた。
「え?」
「思い出、つくらなくていいの?」
俺は今だに考える。
苦しみを伴う思い出ならば、つくらないほうが良かったのだろうか…と。
あの夜の出来事が、彼女を泣かせてしまう原因だったとしたら、それは正しかったのだろうかと。
あの日、君をさらって…2人だけの世界に行きたかった。
誰にも邪魔されない場所に行きたかった。
君は泣いていた。
降りしきる雨に紛れ込ませるように、もう何度流させたかしれない涙を流していた。
…真梨side……
「…あ、雨」
最終下校をとっくに過ぎた昇降口で、私は暗い空を見上げた。
「マジで? 俺、傘持ってきてないんだけど」
ローファーを履きながら、龍我くんも空を見上げる。
私は無言で折りたたみ傘を広げて、差し出した。
「…入れてくれんの?」
にやっと笑って、龍我くんが傘のなかに滑り込む。自分から差し出したくせに、距離が近くて緊張する。
「俺が持つよ。身長差があるから差しづらいでしょ」
「うん、ありがと」
ポツポツと音をたてていた雨は、あっという間に本降りになった。
「うぉ、冷たっ」
「わ、ごめん」
私の傘は相合傘をするには小さくて、雨は容赦なく肩を濡らしていく。
「…マジか」
いつも別れるT字路にさしかかって、私たちは顔を見合わせた。
「どう…しよ」
雨は止みそうにない。
「あの…龍我くん」
そのとき私が発した言葉を、彼はどう思いながら聞いて、頷いてくれたんだろう。
「ただいま…」
返事のない、静かな家。
「お邪魔します…」
龍我くんを、あげてしまった。
…奇遇だった。
お姉ちゃんは出張、沙耶は昨日から修学旅行。今日は2人とも帰ってこないから…と言うと、彼は降りしきる雨に目を細めながら、頷いたのだった。
「…これ、貸すから。女物だし、ちょっと小さいかもしれないけど」
Tシャツとフリーサイズのスウェットを差し出す。
「…ごめん、ありがとう」
龍我くんは素直に受け取った。
「お風呂沸かしてくるね」
なんだかよそよそしくて、私は早々にその場を離れた。背中に彼の視線を痛いほど感じながら。
心臓が、警鐘を鳴らしていた。
「さっき、家族に電話した」
シャワーを浴びた後、龍我くんの一言に、私は念のため訊いた。
「その…大丈夫?」
自分から誘っておいてのこのセリフに、彼は苦笑した。
「那須ん家に泊まるって言ったから」
「あぁ、那須くんか…」
その言い訳が、那須くんに迷惑をかけないことを願う。
妙な緊張感が2人の間に張りつめていた。ご飯を食べていても、テレビを観ていても、勉強をしていても。つとめて冷静を保とうと、笑顔になろうとしたけれど、"これからのこと"を考えずにはいられない。
「えっと、俺はどこに寝れば…?」
「とりあえず…ここに」
夜、私は龍我くんのために新しい布団を出した。なるべく彼から離れて、彼に背を向けて眠ろうとした。そうでもしないと、眠れそうになかったから。
「おやすみ」
そう言って部屋を暗くしても、すぐ傍に彼がいることを痛いほど意識していた。本当に、手を伸ばせば届く距離だ。
やっぱり、怖いんだ。
こうして同じ部屋で寝ているということ自体が、夢のようなことなのだ。
私たちは、どんなに近くても重なり合うことは許されない。たった2人で全ての責任を背負えるほど、大人ではないから。
忘れよう。これ以上望むものは何もない。何もないのだ。
そう言い聞かせても、すぐ傍にいる温もりに触れられない歯痒さが、胸を締めつける。
既に答えの見えた問いなのに、私はまだ問い続けていた。
なぜ龍我くんと一緒にいられないの。
耐えられない。耐えたくない。
「真梨…」
小さな声が聞こえた。
「…何?」
「そっち、行ってもいい?」
心臓が跳ねた。
答えあぐねていると、彼は苦笑した。
「何もしないから。大丈夫だよ」
「うん…」
深く息を吐く。龍我くんはそれで理解したのか、布団が擦れる音が聞こえた。
心臓が鳴っている。期待することなんてないのに。ただ、一緒に眠るだけなのに。
背中に、涼しい空気が流れ込む。
一瞬後、思いがけないほどの温かさが、私を包み込んだ。
…龍我side……
参ったな…
俺は溜息をついた。
眠れない。
どうしよ、真梨がいる。
修学旅行の夜でさえ感じなかったような、胸の奥の疼き。こんな状況だというのに、いやこんな状況だからなのか、健康な男子高校生の頭のなかでは超大型巨大台風並みの妄想がもくもくと膨れ上がっていた。
一瞬冷たい床を踏んで、温かいなかに潜り込む。
その華奢な体を抱きしめると、懐かしいあの花の香り。
壊れそうなほど儚くて、その儚さにひたすら願っていた。
この一瞬…一瞬でいいから、今夜一度きりでいいから、真梨の一番近くにいさせて、と。
…真梨side……
背後から包み込まれた体は、だんだんと2人の体温が溶け合うように温かくなっていった。
微かな吐息も、触れる指先も、やたら敏感に感じてしまう。
龍我くんは私のうなじに鼻をつけて、ほとんど聞こえないような声で囁いた。
「ずっとこうしてたい…」
ずっと…
そんなこと、ありえないのに。
終わりの見えている恋だから。
暗闇が涙で滲んだ。布団に顔をうずめる。
どうしてだろう? どうして私たちなんだろう?
龍我くんを好きになることが、こんなにも苦しいことだなんて、思ってなかった。
あんなに強く決心したはずなのに、私は…私たちは……
「…こっち向いて?」
背後が動いた。横を向いている私の肩に手が置かれ、そっと仰向けにさせられる。
真上に、龍我くんの顔があった。
その瞳から涙がこぼれ、私の頬に落ちる。
「ごめん……大好き」
ほろりとこぼした龍我くんは、私に覆いかぶさって、唇を塞いだ。深い闇のような物悲しさが流れ込む。
…耐えたくない。
私たちは、苦しみを分け合うようにキスをした。お互いの全てを知ろうとするかのように舌を絡ませた。息ができなくなった。
もう、良いかな…?
私だけの人じゃない。そんなことはわかってる。
けれど…
頬を伝う涙が、首筋をさまよう指が、私の身体を火照らせる。
雨は降り続いていた。
誰にも分からない、知られないこの場所で。
…私たちは、とうとう最後までお互いを赦すことはなかった。
それでも、この刹那、私は龍我くんの腕のなかにいる。肌と肌が触れているのも、温かい吐息も、確かに感じることができたとき。
この刹那、だけは…
夢を見ていた。
澄み渡る空の下、門出を告げる鐘が鳴る。
盛大な拍手に包まれて、私たちは一歩を踏み出した。
隣に立つあなたは白いタキシード姿で、私を見つめて微笑んで…
「綺麗だよ」
やわらかい太陽の光が照らす庭園を、2人並んで歩いた。
時は進む。
突然、激しい痛みが襲った。
歯をくいしばる私の耳元で、あなたの声が聞こえた。
「がんばれ、真梨」
そして…
闇から光のもとへ生まれ出た赤ちゃん。元気な声で泣いている。
「ありがとう、真梨。ありがとう…」
あなたも目を潤ませる。
そしてまた時が進み…
私はキッチンに立って料理をしていた。
ふとリビングに目をやると、ソファーに座って台本を読んでいるあなたに、とてとてと女の子が寄ってきた。
「ぱぱー、えほんよんでー」
「今お仕事してるからちょっと待っててねぇ」
忙しいあなただけど、ちゃんと目を合わせて答える。
「えーっ、よんでよ、よんでー!」
絵本をぐいぐい押しつけられて、あなたは参ったように笑った。
「…いてて。もう、わかったよー」
絵本を受け取りながら、あなたが振り返った。
「……って、本好きなところとか本当に真梨そっくりだよね」
肝心の、女の子の名前が聞こえない。
「なに、龍我くん、もっとはっきり言ってくれないと…」
するとなぜか、視界が急にぼやけてきた。
「龍我くん、」
あなたの笑顔が滲んでいく。
「龍我くん……」
どこまでも、幸せな夢だった。
…龍我side……
「ただいま」
朝帰りした俺を出迎えてくれたのは、弟だった。
「あー、おかえり」
慣れた手つきで朝食を用意している弟を、背後から覗き込む。
「お前が作ってんの?」
「だって、まだお母さん起きてないし…」
これでも3ヶ月前までは大人ぶってブラックコーヒーを作っていたような奴だ。今は料理男子に目覚めたのか、はたまた主夫になりたいのか、部活のないときはほぼ毎日キッチンに立っている。
「制服、着替えてきたら」
「そうする。…あ、昨日ありがとう、伝えといてくれて」
てきぱきと準備する弟は、俺に笑ってみせた。
昨日、帰らないことを電話した相手は弟だった。兄弟という間柄もあるのだろう、母親より話しやすい。弟は俺の嘘を信じて、両親に伝えてくれたのだ。…心苦しいけれど。
立ち去ろうとすると、
「…龍我」
弟に呼び止められる。
「香水変えた?」
ドキッとした。
「え、くさい?」
「いや別に。なんかうっすらフローラルな匂いするけど気にはならないかな」
「あ…そう。よかった」
アイドルという仕事の影響もあってか、俺は香水を欠かさずつけている。今のお気に入りの香りは最近ハマりだしたばかりで変えてはいない。
なんでそんなことを訊くのか疑問に思いながら、俺は自分の部屋に行った。
弟に訊かれたとき、一瞬頭をよぎった可能性は、考えないようにしながら。
…?side……
私はドアの前に立っていた。
…大丈夫。
鉄製のドアノブの冷たさと木製の厚い扉の重さを、この手にはっきりと感じながら。
ドアを開けた。
「失礼します。お話があります、……校長先生」
【瞬 第9話 刹那②】
…龍我side……
不思議だね。
大きな決心をしてから、君と過ごす時間が増えた。
苦しい決断だったのに、その理由にあたる人と一緒にいた。
制限時間が短くなるかもしれないのに、一緒にいた。
心の奥にどこか寂しさを抱えながら、それでも俺たちがその時間を苦と思わなかったのは、2人の感情がひとつだったからだ。
ただ、君が好きで。
何度もお互いの気持ちを確かめ合った。
人を愛するということ。
その切なさも儚さも全部かみしめながら、ただひたすらに君を想った。
最後の季節の"その日"まで。
…真梨side……
窓越しに見える夜空には、ぽっかりと月が浮かんでいた。
東京では見られないような、澄んだ空だ。
修学旅行1日目の夜。さっきまで騒いでいた相部屋の子たちもみんな寝てしまい、静かな時間。
一番窓際に敷いた布団には、月光がほの白く降り注いでいる。その明るさもあってか、私ひとり…眠れていなかった。
そういえば、今夜は流星群が見えるって天気予報で言っていたっけ。
ふと、龍我くんのことが頭に浮かんだ。
一般コースから少し離れて、一番後ろで見学ルートをまわるトレイトコース。昼間は会えない。夜ご飯のとき全員が集まる食堂でもさりげなく探してみたけれど、一学年の人数が多いので、見当たらなかった。
今、何してるんだろう…? もう寝てるかな……
そのとき、枕元の携帯が鳴った。
新規LINE、1件。なんと龍我くんからだった。
『もう寝ちゃった?』
その文面に、思わず笑みがこぼれる。龍我くんも同じこと考えていたんだって、それだけで少し嬉しくて。
『まだ起きてるよ』
送信すると、すぐに既読がついた。
『今、出てこれる?』
え、どうしたの?
『会えないかな』
傍にいないのに、顔が熱くなる。
『うん、いいよ。今から行く』
そう返信すると、上着を羽織って私は部屋を出た。
見回りの先生に見つからないようにそろそろと階段を下りて、エントランスでサンダルを履いて外へ出る。涼しい風が頬をなでた。
「…真梨」
常夜灯の下に、龍我くんが立っていた。こっちこっち、と手招きしている。駆け寄ると、かすかに甘い香りがした。
「もう寝ちゃったかと思った」
安心したように笑うので、私も小さく微笑む。
「寝てないよ。緊張で寝られないみたい」
本当は龍我くんのことを考えていたからだなんて、恥ずかしくて言えなかった。
「ところで、なんで?」
すると、龍我くんはボソッと呟いた。
「デートしよっか」
「…え?」
一瞬、思考が止まる。
「ほら」
龍我くんは、サッと私の手をとって、ぐんぐん歩き出す。
手を引かれるまま、ホテルの裏にまわって、わずかに傾斜のある小さな道を行く。
「さっき部屋の窓から外見てたんだけど、あそこからなら景色いいかなって思って」
そして着いたのは、丘の上の開けた場所だった。いつの間にか周りにあった木は途絶え、草原が広がっている。
…こんな所、あったんだ。
「見て、めっちゃ綺麗」
子どもみたいな笑顔を浮かべて、龍我くんは眼下を指差した。
見下ろすと、北海道の夜景が一望できる。さっきまでいたホテルは丘のふもと。
視線をずらすと、ライトアップが一際目立つ白い建物が見えた。
「あれは…時計台かな」
「あー、そうだね。昼見たとき案外ちっちゃくてびっくりした」
「…もしかしてビッグベンみたいなの想像してたの?」
「うわ、バレた。隠し事できませんね、真梨には」
ぎょっとしたように私を見る。素直な人だ。
「でもライトアップされるとやっぱり綺麗だね…」
昼間は札幌の街並みにあんなに溶け込んでいた時計台。時を刻み続けているその動きはずっと変わらないのに、神秘的な光に包まれている今は、なにか特別な景色を見ているように感じる。
キラキラと輝くネオンを見つめながら、私は龍我くんの左手をぎゅっと握った。
「ありがとう。最高のデートだよ」
…龍我side……
2人並んで草原に腰かけた。
涼しい風が吹き抜けて、湿った夜の匂いがツンと鼻先を掠めた。
「むかし読んだ本でね、流れ星にお願い事をするのは、これ以上自分1人の力ではどうしようもないことを叶えたいからだって書いてあったの。できる限りのところまで努力して、後は星の神様に託すんだって…」
真梨は前を見つめながら話していた。そこには暗闇が広がっている。
「でも、星の神様は気まぐれだから、どんなに努力しても叶わないことはあって…流れ星はすぐ消えていっちゃうから…」
そこで真梨の声が途切れた。彼女は膝に顔をうずめている。その背中が小さく震えていた。
俺はそっと手を伸ばして真梨の肩をなでた。
「…お願いしようよ、それでも」
「…え?」
真梨が顔を上げた。
頭上には、満天の星が散らばっている。
そして、その時間がやってきた。
夜空を滑るように尾を引いて、一筋、また一筋と星が流れていく。
「…きれい」
オリオン座流星群。流れるスピードは速いが、そのぶん長く痕跡を残すという。
いつの間にか、真梨は両手を組んで目を閉じていた。
願うことはひとつだった。
叶うはずのない、2人の未来。
「…龍我くんと、ずっと一緒にいられますように」
一縷の望みをかけた願いは、夜空に儚く消えていった……
…真梨side……
翌朝。
「真梨! 朝だよ!」
おぼろげな意識が、ハッと覚めた。朝っぱらからよく通るハイトーンボイス。
薄目で確認した時計は、
「ま…まだ5時じゃん…」
「えー、いつも早起きのくせにぃ〜」
ほっぺをぷにっと摘まれて、仕方なく目を開ける。目の前には夏菜子の顔。他の子たちも、既に全員起きて着替えていた。
「ちょっとみんな…早くない?」
起床時間は6時のはず。まだ寝ていたい気持ちだ。
とはいえいつもなら早起きの私。
眠い目をこすりながら、夜更かししすぎたかな…と昨夜を思い出していた。
2人でそのまま腰かけた草原で、星が流れ始めてから、私たちはしばらく黙ったままだった。
群青色の空を見上げていると、膝を抱えた肩が思わず震えた。
「…寒い? 戻ろうか」
覗き込んだ龍我くんに、私は首を振った。
「うぅん。…まだ、一緒にいたい」
「何それ、その言い方ズルくない?」
照れたような声。
やわらかく笑いながら、龍我くんは自分の膝をたたいた。
「…おいで、真梨」
言われるまま移動して、膝と膝の間に座ると、ふわっと後ろから覆いかぶさる腕。背中から、龍我くんに包み込まれていた。
「可愛い彼女に、風邪ひかせる訳にはいかないんですよ」
耳元で囁く声に、やんわりと体温が上昇する。
「…ね、こっち向いて?」
「ん…?」
顔だけ振り向いたとたん、唇が重なって…すぐにぱっと離れた。
月明かりに照らされた顔がうっとりするほどかっこよくて見つめていたら、2回目が降ってくる。
「……」
3回目は、少しずれてほっぺ。
「…っ…」
4回目は耳の下。
「…龍、」
首筋にうずめた顔が上がる。髪の毛がくすぐったい。
「…ふふ、ごめん」
私をすっぽり抱え込みながら、 龍我くんは呟いた。
「いつか、またこういう所に来ようよ。…今度は2人だけで」
その言葉は、センチメンタルなこの季節だからじゃなかった。
未来の約束。これからどうなるかなんて分からないけれど、このときの言葉を、私は一生、忘れられないんだろう。
ねぇ神様、お願いします。
もう少しだけ、彼の傍にいさせてください。
…志田side……
シグナルを、見つけた。
彼女からのシグナルを。
"助けて"
そのシグナルを。
修学旅行。この修学旅行が、勝負だと思った。
ケイからのメモを握りしめて、うまくいきますように。この道が、どうか正しくありますように。そのことばかり考えた。
3泊4日。見学レポートをまとめたり、友人たちとのお喋りに興じながら、私は彼女からの応答を待っていた。
正しく在るために、彼女の気持ちが必要だった。
「…志田さん」
彼女に話しかけられたら、それは"証"。
「…私、決めたよ」
"助けて"と必死に浮かべていた笑顔。その本当の意味を、私は、ケイは、見抜いた。
彼女の決めた"証"が、どうか正しくありますように。
どうか正しく…良い方向に導いてください。
あの頃の私は…自分を正当化したかっただけかもしれない。学級委員として恥じないよう、正しさだけを意識していた。
…本当は、正しさなんてないのだ。恋愛には。
どんな恋だろうと、好きになったことに罪はない。
恋したことのない私に采配できるような問題ではなかった。
なんで…好きになってしまったの?
愚問だった。
『…守りたくて』
ただそれだけ。
ただ…それだけなんだよ。
冬の風に吹かれながら、責めることも罵ることもしない貴方は、一言そう答えたのだった。
【瞬 第9話 刹那①】
…真梨side……
10月。
2学期の中間テストを目前に、私は自室で猛勉強していた。
猛勉強…といったら無言でシャーペンを動かすことを想像するかもしれないけれど、実際は教科書とノートをひたすら音読するだけだ。お姉ちゃんから教わった勉強法。耳で覚える、これが大事。
_ガチャ
「真梨、ご飯よ」
お姉ちゃんが顔を出した。今日は久しぶりにお姉ちゃんお手製の夕飯だ。
「はーい、今行くー」
今まで読んでいた英文を目に焼きつけて、私はリビングに下りた。
テーブルには、パエリアが3皿並んでいる。
「わ、おいしそう」
「そう? 久しぶりで腕がなまってたからおいしいかどうか…」
両親のいない4年間、家事に慣れない私たちを支えてくれたのはお姉ちゃんだった。最初の頃は、お姉ちゃんが全部1人でやってくれていて…それは申し訳なくて、私は料理を必死に覚えた。私を教えてくれたお姉ちゃんだから、おいしくないわけがないのだ。
いつものように、三姉妹で食卓を囲む。
「あ、今日少クラ〜」
沙耶がこうしてテレビを点けるのも、だいぶ慣れた。
「きゃぁぁぁ、那須ーー!!」
音楽番組ともなると、沙耶はうるさい。
お姉ちゃんと私はといえば、ぎゃーすか騒ぐタチではないので、「おぉー」とか「わー」とか感嘆のリアクションのみ…いつもはそうなのに。
パエリアを口に運びながら観ていると、サビのところでいきなり龍我くんの顔がどアップになって、
「っごほっ!!」
むせた。
「え、お姉ちゃん!?」
「真梨? どうしたの」
「ん、うぅん、なんでもない…」
慌ててコップの水を飲む。
慣れてる、はずなんだけどな。
何度も龍我くんを近くで見た。けれど、抱きしめてくれるたびに、キスしてくれるたびに、それらは新鮮な感覚をもって私に迫る。
だからなのかな。いきなり炸裂するアイドルスマイルには、心臓がもたないよ。
「ふふ、」
落ち着いた後に思わずもれた笑いには、沙耶もお姉ちゃんも気づかなかったみたい。
…2人にはまだ秘密の恋だ。
「あー、何これわかんない!」
個室に、夏菜子の声が響いた。
「どれ?」
真っ先に覗き込んだ金指くんが、ぷっと吹き出した。
「夏菜子、こんなのもわかんないの?」
「一世うるさい!」
中間テスト対策の勉強会…と称して集まったカラオケ。狭い個室に、夏菜子、麗華、私、そして龍我くんと金指くん。5人でテーブルを囲んで、ドリンク片手に英語の長文問題を解いている。
きっかけは、龍我くんからのメールだった。
『中間テストの勉強会やらない? 夏菜子ちゃんたちも誘ってさ』
…夏菜子ちゃん。その呼び方に龍我くんらしさを感じながら、私はふと考えた。
あれから、夏菜子の心中がなんとなく気になっていて、心配ではあった。
でも、いざ仲良くなってみると…これだ。
1学期期末テストでは学年5位だった金指くんにバカにされ、夏菜子が突っ込むという図。しかもお互いに下の名前で呼び捨て。いつの間にそんなに仲良くなったのっていうくらい、見ていて安心する掛け合いだ。
「ごめんねーうちの金指が」
「いやいやいや! プラベでもマジの毒舌家とは思ってなかったよ…」
「さぁ〜て、俺は自分の問題に戻りますね」
「え、毒吐いといて教えてくれないんだ!? うわー、ないわー」
頭を抱える夏菜子を、眉を上げてニヤニヤ笑いながら見ている金指くん。人見知りと聞いたけど、案外そうでもないようだ。まるでむかしからの友達みたい。
「2人とも、ちょっと静かに勉強なさい」
麗華の牽制は、うるさい弟と妹を諌める姉のようで、龍我くんと私は顔を見合わせて苦笑した。
「今回のテストは絶対勝つから」
「受けて立つよ。勝てるもんなら勝ってみな」
勝負始まってるし。
「ま、まぁでもね、これ終わったら修学旅行だし? テストなんてちゃっちゃと終わらせてパーッと楽しんじゃいましょうよ」
ヒートアップした2人をフォローするように、龍我くんが言う。
「あ、もうそんな時期かー」
私たち東城高校2年生の修学旅行先は、北海道だ。秋の北海道。なんとも微妙な季節をチョイスしたものだ。
「ってかスキーできないとかありえないでしょ!」
「スケートリンクならあるわよ」
「それは違う! 全面雪景色の大パノラマで本格的にスキーがしたいのよ!」
「まぁまぁ」
そう宥めながらも、これには思うところがあるのか、みんなでうんうんと頷いた。
「2日目は自由行動の日だから、その日にでも行こうよ」
「そうだねー。…あっ、てかトレイトって行くんだね。みんな忙しいから、てっきり行かないものかと」
夏菜子がくるっと顔を向ける。
「一応希望制ってことにはなってる。ま、俺たちは行くけどね」
龍我くんと金指くんが顔を見合わせて頷いた。
「そうなんだ…」
希望制。この言葉を、私は今までも何度か耳にしていた。
トレイトコースは、多々ある学校行事が全て希望制となっている。体育祭も文化祭も、もちろん修学旅行だって、参加は生徒の自由だ。
一般コースとトレイトコース。やっぱり何か、明確なギャップを感じてしまう。
それでも、「なるべく参加するようにはしてる」と言う2人は、案外"高校生"しているのかもしれない。
「この問題解いたらさー、なんか曲歌おうよ。せっかくカラオケ来たんだし勉強だけで終わるのはもったいなくない?」
「え、カラオケになると俺ヘタだよ?」
「あら、意外ね…」
「こないだ大昇とカラオケ対決してたけど普通に負けてたよね」
「バカッ、言うな言うな!」
こうしてみんなで過ごす時間が、とても楽しくて幸せで。
狭い個室は、笑顔で溢れていた。
私の大事な人たち。
この世界が全てだったなら。
龍我くんと私、ずっと一緒にいられるのに。
中間テストが終わった。
3日後、学年掲示板に成績上位者が貼り出された。
1位。入学してからずっと変わらないその数字に、もう驚くことはない。
そして…
「うわぁぁぁぁ!!あと1個!あと1個だった!またバカにされる!」
私の隣で荒ぶる夏菜子、6位。5位は相変わらず金指くん。
「惜しかったわねぇ…」
麗華は4位につけている。
龍我くんは…15位。
今回はみんな頑張っていた。様々な思いを胸に抱いて、私たちは新しいスタートを切った。
…志田side……
「ごめん、俺行けないわ。修学旅行」
生徒会室の隣。いつもの場所で、昼食のパンをかじりながらケイは言った。
ドラマの撮影で、地方に数日間泊まるらしい。
「あ、そう。楽しんできて」
お弁当を広げながら、私はさらりと返した。
ケイの業界人気は並みのレベルではない。"かわいい男の子"から"イケメン男子"へと変貌を遂げた彼は、特に女子中高生からの人気が熱く、仕事が絶えない。それに比べて私は、童顔の低身長。モデルでもない、恋愛ドラマのヒロインなんてもってのほかだ。子役から一緒にやってきたのに、いつの間にか先を越されてしまった。
「なんか…悪いな。美久ひとりに任せてばっかりでごめん」
「ん、別に……」
学級委員をケイと組むと決まったときから、なんとなく予想できていたことだ。今更何を……
頭にふわりとした感触。思わず首をすくめた。
「…良い奴だな」
ケイの手のひらが、私の頭をなでる。良い奴って…
「…ふっ」
「おい笑うなって」
ケイはすぐに手を引っ込めた。
「これ」
そう言って差し出されたのは、小さく折りたたまれたメモだった。
「あいつについて気づいたこと、まとめてみた」
「え…」
メモを開くと、男子とは思えないほど丁寧な字が、ずらりと並んでいた。
「俺からのアドバイスだと思えよ…って何お前泣きそうになってんの! えっどうしたの!?」
「…なんでもないし…っ」
幼なじみを前に、強がりな照れ隠しのセリフが出る。
「…でも、うん…ありがとう」
そう言うと、ケイはニッと笑った。
『修学旅行のとき、お守りにして持ってけよ』
彼はそう言った。
"橘について気になったこと"
彼なりに考えていてくれたのだ。忙しい日々のなかで、クラスのことを考えていてくれたのだ。
ケイ、ありがとう。
撮影があるから、とケイが帰った後、ひとり残された部屋でメモを読み進める。
…その目は、最後の行で止まった。
私はメモを折りたたみ、そっとポケットにしまう。
やっぱり私より、ケイのほうが観察力があるのだ。そして彼はいつも正しい。
その丁寧な字は、抱いてはならない感情の存在を告げていた。"彼女"のなかに、感情が渦巻いていることを告げていた。
「橘さん?」
彼女は振り向いた。人好きのする笑みを浮かべて。そのまま雑誌の表紙になりそうな笑顔で。
「なに? 志田さん」
その笑顔を見つめ、その声を聞いて…
ごめんね…橘さん。
私は私の思った道を行く。
クラスのみんなを守るために。
私はゆっくりと彼女に近づいた。
【瞬 第8話 交錯③】
…龍我side……
本当に信じられる人。
慎重に慎重を重ねて、真梨と2人で考えた。
秘密を打ち明ける友達、数人を絞りながら、
俺が俺で…ごめんね?
何度そう思ったかしれない。
真梨は勘づいて、
「…私が決めたことだから」
きっぱりとそう言った。
「龍我くんと一緒にいたいって、決めたのは私だから」
俺にはもったいなさすぎる彼女だなんて、このとき思ったんだ。
初めて会ったときと寸分たがわない笑顔で、
「…大好きだよ」
静かに花が咲いたような、そんな笑顔を浮かべて彼女は言った。
…金指side……
「そっか……」
携帯から聞こえる龍我の声は、意外にもしっかりしていた。
「大切にしなよ、彼女のこと」
俺はそう言って、電話をきった。
終わりの見える恋だ。それでも続けたいと言う。
2人が決めたことなら、俺は何も言うことはない。
龍我と知り合って3年。
彼の性格を、俺は知っている。
頑固で負けず嫌いで、そして天性の才能を持ち合わせた努力家。
ただ…無理はしないで。
見かけによらず、ナイーブなところがあるから。
俺にできること、それは。
2人を守ることだ。
…夏菜子side……
それは、人生で最大の出会いだった。
図書館書庫。
初めて訪れるその場所の前で、あたしは勇気を出してドアノブに手をかけた。
緊張は頂点に達していた。
どうしよ、あたし。倒れるかも。
かるく貧血になりかけて、この熱の上がりようはやっぱり"本気で好き"だったんだと気づいた。
頭のなかが煮込みスープみたいにグツグツとして、空回りする思考を抑えつつ、ドアを開けた。
「…はじめまして」
このときの会話を、あたしはよく憶えていない。
ただ、テレビで見るより背が高くて、テレビで見るよりかっこよかった。そんなアホみたいなことしか憶えていない。
初対面の後、真梨におそるおそる「どうだった?」と訊かれた。
「…うん……なんか、」
なんか、よくわからないけど、
「…ありがとう、真梨…っ、うっ…」
その言葉が、あたしの口から滑り落ちた。
驚いたように見つめる真梨の目からも、涙が零れ落ちる。
「ごめんね、ごめんねぇっ…」
「うぅん、…違うの、違うよ…真梨…」
道行く人が、泣きながら抱き合うあたしたちを不思議そうに見ていた。
このときね、あたし、素直になったんだよ。
涙は、あたしの心の淀んだ澱をすっかり洗い流した。
『佐伯さん。見守っていて、くれませんか』
初めて傍で聞いた、彼の言葉を思い出した。緊張気味なその言葉。
でも彼は真剣だった。2人が一歩を踏み出した気持ちが、あたしにはなんとなくわかるような気がした。
『はい…わかりました』
とびきりの笑顔を浮かべて右手を差し出す。
握り返す龍我の手は少し汗ばんでいた。きっとずっと緊張していたのは、彼も同じなんだ。
そう思いながら、次にピッピと交わした握手で、あたしは、
『なんか…テレビと変わらないね』
『そりゃ、これが素ですから』
そんなやりとりができるまでに、笑えてたんだ。
『これからよろしくね』
…真梨。
出会わせてくれて、ありがとう。
…龍我。
君を好きになってよかった。
…真梨side……
夏菜子を龍我くんたちに会わせてからしばらくして、私は麗華にも事実を打ち明けた。
ここにあえて時間差をもうけたのは、夏菜子が落ち着くまでの時間が必要だと思ったからだ。彼女には、夏菜子ほどの衝撃はないと考えた。
麗華は、その性格も相まって、目を大きく見開いて「本当なの?」と言ってからはずっと黙っていた。反応の違いは予想通りだ。
「…そう。それで、今度実際に会ってほしくて」
「わかったわ。いつがいいかしら?」
そう言ってすぐ手帳を取り出すあたり、飲み込みが早い。
事前に龍我くんに指定された日にちを伝えると、それを書き込みながら、麗華は呟いた。
「すごい出会いね…」
いつだったか、『龍我に近くで会いたいよー』と言っていた夏菜子を思い出した。ありえないでしょ、でも出会っちゃったら大変だよね。あのとき笑っていた私たちは、今まさにその未来に立っていた。
…本当にすごい出会いだよ。龍我くん。
ありえないって思ってたことが、現実に起きたんだよ。
これを運命と言わずして、どう言うんだろう。
幸せだった。あなたに出会えたことが。一緒に日々を重ねられることが。
運命の神様はいるのかもって、このとき私は信じていた。
これは偶然じゃなくて、必然なんだって信じていた。
信じて…いたかった。
…志田side……
昼休み。
私は半分に折りたたんだメモをそっと隣の席にスライドさせ、席を立った。
「……」
教室を出るとき"彼"と目が合ったから、ほぼ確信を持って、いつもの場所に向かう。
_ガラガラ
生徒会室。
長机の横を素通りし、一番奥にひっそりとあるドアを開けた。
私はここを物置だと思っている。
4畳しかない狭いスペースは、雑多なもので埋め尽くされていた。それから、この場所におよそ似合わない革張りのソファー。いつ誰が持ち込んだのかは知らない。それでも、使い勝手の良さがわかってからは重宝している。
ここは生徒会室と中で繋がっているので、外から直接入ることはできない。生徒会の人間しか知らない部屋だ。
_コン、コン、コンコンコン
リズミカルにドアを叩く音が合図で、"彼"が来たとわかる。
「どうぞ」
そう告げると、そろそろとドアが開いて、"彼"が姿を現した。
「…ケイ」
俳優仲間。そして幼なじみ。
神木彗は、サッとドアを閉めるとすぐにカチャンと内鍵をかけた。
「何かあった?」
ソファーに座って昼食のパンを食べ始める。
「ん、あのね…」
学級委員たるもの、クラスの内情を多少なりとも知っていなければならない。これはそのための集まりだ。内容によっては教室で聞かれたらまずいことを、ここでときどき話し合う。
2学期に入ってから、私はある人物に目を光らせていた。
「…ふぅん」
私の話を聞いたケイは、パンを食べる手を止めて、顎を触った。何か考えているときの仕草だ。
「わかった。俺も注意して見とく」
「うん、よろしく」
私はやっとお弁当を広げた。
「おいしそう。もらうね」
開けるやいなや横から伸びてきた手が玉子焼きをつまむ。
「わっ、ふざけないでよ、バカ」
「うるさいなー。へへっ」
男女が密室で2人きり。
シチュエーションとしてはなんだかアヤシイけれど、幼なじみとは大丈夫なもので、私たちはお互いに恋愛感情を抱いたことがない。
ただ、この密会がもし知られたら…世間の目は、そう見ないだろう。
そんな世界に生きている。かくも生きづらい世界だ。
自分で飛び込んだ世界なのに、ちゃんと覚悟したはずなのに、どうして私たちは"日常"を求めてしまうんだろう。
東城高校は、ある意味残酷な制度を取り入れたものだと思う。
一般コースとトレイトコース。
壁1枚隔てた、隣り合わせの"日常"に、届きそうだから求めてしまうんだよ。
「…あのさ、さっきの件だけど」
玉子焼きを頬張りながら、ケイは言った。
「美久も今度それとなく訊いてみてよ。こういうのは女同士のほうが訊きやすいだろうし」
「うん、わかった」
ふと、"彼女"の笑顔を思い出した。
2学期に入って、"彼女"はよく笑っていた。手を叩いて、楽しそうに。
楽しそう。そう思うだけなら、別に気にすることはない。
ただ、ときどきその笑顔が、ふっと陰るのはなぜだろう。
色とりどりの華やかなトレイトコースのなかでも、一際目立つ人気女優。
立花なつみ…いや、橘菜摘。
彼女の悩み事は、きっと……
…橘side……
しのぶれど、色に出でにけりわが恋は、ものや思ふと、人の問ふまで。
いつか金指くんに言い当てられたその気持ちと、私は再び向かい合っていた。
古人が詠んだように、恋って案外…バレてしまうものなのかな。
貼りつけていた笑顔を解いて、無表情でぼんやりと見上げた空は澄んだ群青色だった。
『取捨選択は自由だよ』
彼女は言った。この空みたいに澄んだ色を瞳に浮かべて。
その瞳を、猫みたいだな、と思ったことがある。うちで飼っているロシアンブルーも、似たような瞳をしていた。小柄なのに強い目だなって。
彼女が、演技派と呼ばれる所以はそこだろう。目力は"その人自身"を訴えかける。
いつでも本質を見抜く彼女に、偽りの表情は通らなかった。
『このクラスに好きな人がいるの?』
放課後の教室、喧騒のなか耳元で囁かれた言葉に、飛び上がりそうになった。
『え、…え、なんで』
『なんでだろー。なんとなく?』
茶目っ気たっぷりに、にっこりと笑いながら彼女は言う。
『でも…気をつけてね?』
やわらかい言葉に、威圧感があった。
志田美久。
私は彼女が怖い。
…龍我side……
この恋には制限時間があった。
それは砂時計みたいに、流れ始めたら最後の一粒が落ちるまで止まらない。
逆さまにひっくり返せたらいいのにね。
そんな、人の力ではどうしようもないことを考えたりした。
あまりにも多くのものを、一気に抱えすぎてしまったんだ。
あの頃は、一瞬一瞬が大切な時間だった。…ほんの瞬きですらも。
終わりの見える恋の始まり。
それは君との最後の時間だった。
【瞬 第8話 交錯②】
…夏菜子side……
バカみたいだ。
あたしは、目の前に積まれた書類を呆然と見つめていた。
各クラスの学級委員が集まった放課後の生徒会室。文化祭での自分のクラスの決算をまとめて、会長に提出してから帰る。
計算だけの簡単な作業だ。すぐに終わると思ったのに、書類が目の前に置かれたとたん、頭が殴られたような衝撃を思い出してしまった。
文化祭。"pianissimo"。真梨。龍我。『付き合ってるの…私』。
それらの場面がコマ割りのように浮かんでは消え、浮かんでは消える。
プリントに羅列された金額がぶれて、ただの数字に変わった。
みんなが電卓をたたく音が、不快なノイズに聞こえた。
「…うっ……」
体は嘘をつかない。
あたしはそっと立ち上がった。
「…すみません。ちょっと気分が悪いので、保健室行ってきます」
ガンガンと頭が鳴っていた。
逃げるように生徒会室を飛び出して、保健室に駆け込んだ。
しばらく横になり、痛みがひいた後ようやく戻った生徒会室には、誰もいなくなっていた。長机の上にあったメモに"決算書は明日までに提出してください、お大事に"と会長の闊達な字で書かれていた。
…あたしは、ひとり居残ることになった。
こんな日に、克也が学校を休んだのが寂しかった。どうやら文化祭後の打ち上げではっちゃけすぎて体調を崩したらしい。小学生かと突っ込みたくなるような欠席理由に呆れる。
「はぁ…」
溜息が、もれる。
それほどまでに、あの件について衝撃を受けていたとは。
バカみたいだ…あたし。
_ガラガラ
ドアが開く音に振り向くと、意外な人物がそこに立っていた。
「…志田ちゃん」
あたしは思わず、その小柄な女子生徒に呼びかける。
一般コースとトレイトコースが唯一交わるのがここ、生徒会。彼女は、トレイトコース2年の志田美久ちゃん。
「カナやん、どうしたの? ひとりで…あ、もしかして文化祭の?」
頷くと、志田ちゃんは腕いっぱいに抱えた書類をドサッと机に置いて、マシュマロみたいな笑顔を浮かべた。
「そっかぁ。お疲れー。私はこれから雑用だよー」
初めて会った頃、こんなに笑う子だとは思っていなかった。
今年の4月、生徒会役員の初顔合わせの集まりで、あたしは目を奪われた。すぐ目の前に、志田美久と神木彗という俳優コンビが座っていたのだから。2人とも、既にブレイク真っ只中で、知らない人はいないというほど…まさか生徒会に入るなんて、思いもよらず。
そんな2人だから注目されるのは当たり前で、自己紹介が終わった後もなんとなく話しかけづらい雰囲気があった。けれどあたしは、自己紹介中もずっと、ある可能性を考えてウズウズしていた。それで、勇気を出して話しかけてみたのだ。その"目的"のために。
『あの…志田さん』
生徒会室を出て行こうとした背中に呼びかけると、彼女は振り返った。
『あ、佐伯さん…だよね?』
くるんとした目が合った瞬間、頭で思い描いていた"計算"が消えた。
名前を覚えていてくれたことに感動しながら、あたしは"目的"のために行動した自分を恥じたのだった。
龍我とピッピが東城高校の生徒だと知ったのは、入学してすぐの頃だった。
既にファンだったあたしは、飛び上がるほど嬉しかった。同い年の彼らだったけど、芸能人だから高校は行かないかもなんて思っていたから、同じ高校に通っているというだけでもテンションは上がりまくり。
高校受験で志望校を選ぶとき、トレイトコースのある東城高校を選んだのは、そこに賭けてみようという気持ちもないわけではなかった。ある意味不純とすら思える理由だけど、同じ高校に行ってあわよくば……そんな子供じみた甘っちょろい夢を、あたしは生徒会役員になることで実現に近づけようとした。
けれど、あたしは負けた。
佐藤龍我を聞かずして、志田美久の視線に負けた。その隣で、同じく振り向いた神木彗の切れ長の目にも、同じものを感じた。
おそらく自覚していないだろうけど、2人とも、とても印象的な目線をしていた。すぐに見透かされてしまいそうな力強い目。やわらかい笑顔を浮かべていても、根底に凛とした芯の強さが見えた。
やはり幼い頃から特殊な世界にいると、この視線を持つようになるのだろうか。演じる者として培った経験が、貫禄が、瞳に表れるのだろうか。
いずれにしろ、今のあたしが、志田ちゃんたちと仲良くすることで龍我と繋がりを持ちたいという邪心を捨てているのは事実だ。身勝手な感情を表に出すなんて、なんて浅はかな行動だろう。真実を知った今ならなおさら……
「…カナやん」
ふと、我に返る。高2にしてはずいぶん背の低い志田ちゃんに下から覗き込まれると、瞳の強さも相まって思わず逸らしてしまう。
「手伝おうか?」
「え、あ、あぁ…それはありがたい、かも…」
「ほんと? やったー。じゃあ、半分だけやらせてもらうね」
彼女は嬉々として決算書類の上半分を取り上げた。雑用やら何やらもあるのに、他クラスの仕事をやっていていいのだろうか。手伝ってもらっているあたしが言うのもなんだけど。
しかしながら、その理由は、次の言葉で判明した。
「私、決算書まとめてみたかったんだ。ほら、少しは学級委員らしいことしたいなって」
電卓をカタカタ叩きながら、楽しそうに彼女は言う。
トレイトコースではクラスの出し物がないぶん、決算書はまとめなくていい。それをどう思うかは人それぞれだけど、彼女は間違いなく"学級委員として"仕事をしたいという人だった。
「なんかほんと…ありがと。忙しいのに」
「うぅん。むしろ、普段できないことだから逆に楽しいよ。これができたのは、カナやんのお陰」
この瞬間、あたしたちの間に"東城の壁"はない。
「あのさ…」
「ん?」
「志田ちゃんは、どうして生徒会に入ろうと思ったの?」
実はずっと気になっていた。子役から有名になって、仕事に追われる日々のなかで、学校でも人をまとめる立場に就いている。
「…やってみたかった、ってだけだよ」
彼女はさらっと言った。
「私さ、芸能人だからってやりたいことまで諦めたくないんだ。特殊な世界だからどうしても、普通の感覚が麻痺しちゃうことってあるんだよね。それが嫌なの」
それは強い意志だった。
「でもね…ほんとはもっと、交流したいと思ってる」
その意志の合間から、ぽろっと本音がもれる。
あたしはそこに、"答え"を見た気がした。
彼女は普通の女の子だった。どこにでもいる女の子だった。
…龍我。
きっと彼だって、そう。
普通の、どこにでもいる男の子なんだ。
「ときどき、反抗したくなるよ…なんちゃって」
彼女はテヘヘと笑ったけど、きっと本心なんだろう。
心が凪のように鎮まっていくのを感じた。
"本気愛"。
認めていなかっただけで、きっとあたしはそうだったんだ。
理想と現実。その境界線がわからないのは、あたしだった。ぼやけた線を、まっすぐだと信じていただけだ。
文化祭が終わってから、真梨と接するたびに妙に気を遣ってしまう。
届きそうで届かない、ゆらゆらとうごめくような存在。彼がどの世界にいるのか、そればかり考えていた数日間。
でも、あたしは今、思う。
彼のいる場所が、彼の世界。
当たり前のことなのに、いつの間にか錯覚していただけなんだって。
「…なんかあったの?」
「ん、うぅん、なんでもないよ」
開いた窓から涼しい秋風が吹き抜ける。真梨に打ち明けられた、あのときみたいに。
それは、あたしの胸をそっと冷やした。
「カナやん……?」
差し出された手には、ハンカチ。
やだ、あたし。
顔に押し当てると、温かさがじわりと広がった。
志田ちゃんは、それ以上何も訊かなかった。ただ、あたしの背中をさすって、日が沈むまで傍にいてくれた。
…龍我side……
真梨から電話があったのは、文化祭が終わってちょうど1週間が経った日曜日だった。
『龍我くん…会いたい』
真梨にしては珍しくそんな言葉を言うもんだから、切なくキュンとして、翌朝急いで書庫へ行った。
_ガラガラ
書庫のドアを開けると、真梨は既に来ていた。イスに座って俺を見つめる目が、うっすら赤くなっていた。
「真梨……?」
彼女の瞳から、涙が一筋流れていく。
その唇から嗚咽がもれて、彼女は俺にしがみついた。
「私、傷つけちゃった…友達」
「…友達?」
「親友がね、龍我くんの…」
言いかけた唇を、唇で塞いだ。
真梨の言葉の続きがわかってしまったから。
「…ごめん、それ以上言わないで?」
俺は自分勝手だった。
真梨と日々を重ねることが、誰かを傷つけていること。誰かを苦しめていること。
忘れたい。今は何も考えさせないでよ。
いつか迫り来る終わりを、受け止める準備…
そんなの、まだできない。どうしてもできない。
真梨を想えば想うほど、抑えきれない感情に気づく。どんどん君を好きになって、どんどん君に溺れていって、どんどん…手放せなくなっていく。
ギギ、とイスが動いた。
唇に押し続けられる熱に耐えきれなくなったかのように腰を浮かせた彼女を、その瞬間抱え上げて床に押し倒した。
「真梨……っ」
血が上った頭は必死に彼女を求めていた。乱れた呼吸を整える間もなく、その唇に何度も吸いついた。
本当に大事なことを、見ないふりして…
それは苦いキスだった。
今までで一番…罪悪感の積もった、キスだった。